京都からやってきた公家の娘で、高慢ちきな性格から、美女で有名だった信玄の側室・諏訪御料人に対して酷い扱いをする――。
かつての戦国作品ではこのような描写がよく見られましたが、実は誤解を生じかねない描き方でした。
京都に人脈を持つ三条夫人は信玄の戦略に欠かせない存在だったと考えられるし、そもそも初婚の相手は彼女ではありません。
また、三条夫人と諏訪御料人ばかりが目立ってしまうため、他の側室が脚光を浴びる機会が減り、『信玄ほどの英雄なら色を好んだだろう』という漠然とした認識が広がっている状況とも考えられます。
いったい信玄には何人の妻がいて、どんな存在だったのか?
振り返ってみましょう。
※信玄とは出家後の法名ですが、本稿ではこの名で統一します(以下は関連記事です)
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上杉夫人(上杉朝興の娘)
武田信玄にとっての初婚は、天文2年(1533年)のこと。
大永元年(1521年)生まれですので、現代ならば中学生という年齢でした。
相手は意外かもしれませんが、扇谷上杉家当主・上杉朝興の娘です。
関東で勢力争いを繰り広げる上杉と手を組んだのですね。
しかし同年代であったこの妻は、天文3年(1534年)の出産時に母子ともに亡くなってしまいます。
骨盤が発達しない十代での妊娠は危険で死亡率が高い。彼女もその不幸な例だったのでしょう。
三条夫人(三条公頼の娘)
それから2年後の天文5年(1536年)、信玄は元服します。
室町幕府第12代将軍・足利義晴から「晴」の偏諱を賜って武田晴信となり、従五位下・大膳大夫に叙位・任官されています。
大名の嫡男に相応しい元服であり、このとき左大臣・三条公頼の娘である三条夫人が嫁いできたのです。
花婿と同年の彼女は、摂関家に次ぐ清華七家に列する転法輪三条家の出身、まさにお姫様。
彼女と共に京都からやってきた侍女たちにより、甲斐に雅な文化が吹き込まれたことでしょう。
母方の血が濃く、家臣たちから学問は程々にして欲しいとまで言われた信玄。
そんな彼にとって『源氏物語』など、王朝の文化を伝えてくる妻には知的好奇心も刺激されたはずです。
天文7年(1538年)には男子・太郎(のちの武田義信)も生まれ、正室としての務めを果たし、この後も多くの子を産んでいます。
ただし残念ながら、彼女を母とする男子は全員が母に先立ち、家督を継ぐことはありませんでした。
北条との同盟のために嫁いだ黄梅院も母より先に、若くして亡くなっています。
そして、嫡男・義信の死より遅れること3年、夫・信玄に先立つこと3年、元亀元年(1570年)に没します。享年50。
三条夫人はフィクションで割を食うことが多い人物です。
武田信玄の“物語”におけるヒロインが諏訪御料人にされがちで、彼女はそれに嫉妬する高慢で冷酷な女性として描かれることが定着していました。
義信が家督を継がなかったことも影響しているのでしょう。
※以下は三条夫人の関連記事となります
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名僧である快川紹喜は、彼女の葬儀で詠んでいます。
「五十年間法輪を転ず 涅槃菊に先立つ紫 金身三条の銀燭霊山の涙 愁殺す西方の一美人」
西方から甲斐に来た、信心深いその心根までも美しい女性の姿が、そこにあります。心優しく、穏やかで、周囲から慕われる女性であったのです。
京都から嫁いできた縁も、武田家にとって重要な要素です。甲斐と京には人脈という接点も生まれました。
武田に仕えた真田昌幸が、京都出身の山手殿を妻に迎えたのも、そうしたつてがあってのものでしょう。
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