こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【信玄の妻】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
諏訪御料人(諏訪頼重の娘)
各地の時代祭りとは、その土地の歴史観が反映されます。
例えば米沢市の「米沢上杉まつり」では、上杉謙信と武田信玄の一騎打ちが名物。
むろん、川中島から米沢は遠く、そもそも藩祖は上杉謙信ではなく上杉景勝ではないのか?という疑念も湧きますが、それだけ上杉謙信と武田信玄は存在感があるのでしょう。
そして信玄に関連して、フィクションでの扱いが大きい人物といえば、この諏訪御料人です。
甲府青年会議所が開催するミスコンテストは「湖衣姫コンテスト」であります。新田次郎の小説『武田信玄』での諏訪御料人の名を冠しているのです。
それほどまでに甲府を代表する薄幸の美女として有名なのが諏訪御料人。
そんな彼女は諏訪氏に生まれました。
諏訪氏は諏訪大社の祭祀を司る大祝家で、その惣領家が武士を束ねるようになり、代々、諏訪を治めてきました。
戦乱の世の中、5代諏訪頼重は武田信虎と対立します。その後、和睦し、信虎の娘・禰々(ねね)を娶ると、諏訪と武田の間に平和が訪れました。
しかし、信虎が追放され、信玄が家督を継ぐとこの均衡は壊れます。
信玄は頼重を攻めて捕縛、甲府に連行し、東光寺に押し込めたのです。
わが屍は諏訪湖に沈めよ――そう言い残し、頼重は命を絶ちますが、その頼重には「かくれなき美人」と評される14歳の娘がいました。
信玄は彼女に目をつけ、室として迎え入れようとします。
しかし、いくらなんでも敵方の女を……と重臣たちが苦い顔をしたところで、賛同に回ったのが山本勘助とされます。
山本勘助は信玄の参謀と言えるのか? 実在すら疑われていた隻眼の軍師に注目
続きを見る
山本勘助を描いた井上靖の小説『風林火山』や、これを原作とするドラマでは、山本勘助が彼女に憧憬を抱いていたと描写されます。
諏訪御料人ではなく「由布姫」という名で登場。
しかし姫への想いはあくまでフィクションであり、勘助はこう進言したとされます。
「姫に男子が授かれば、諏訪家の再興がかなうと望みを繋いだらいかがでしょう。さすれば諏訪家は、武田家に忠義を尽くしましょう」
勘助の提案に乗ったかどうかはさておき、史実の信玄は実行に移しました。
なお、この提案は頼重と禰々の遺児であり、信玄の甥にあたる寅王を無視していることにもなり、彼女が信玄のことをどう思っていたのか? という点は伝えられていません。
確かなことは天文15年(1546年)、彼女が信玄の四男である四郎、後の武田勝頼の母となったことです。
しかし彼女は、幼い勝頼を残したまま、弘治元年(1555年)に世を去っています。享年24。
あまりに悲劇的な薄幸の美女であるためか。
山本勘助人気の影響か。
政治的な策略ありきで、強引に彼女を我が物とする信玄が悪辣に思えるせいか。
前述の通り、ミスコンテストにまで名が使われるほど著名な諏訪御料人。
しかし、彼女の遺児である勝頼の境遇を含め、それほど美化してよいものなのか?と疑問は感じます。
武田勝頼は最初から詰んでいた?不遇な状況で武田家を継いだ生涯37年
続きを見る
信玄は勝頼を一段下の扱いで見ておりました。
三条夫人を母とする義信とは扱いに差があったのです。
実際は、義信が非業の死を遂げ、勝頼が思わぬ家督相続を迎えますが、それは運命というよりも残酷なものでした。
信玄は勝頼のあと、嫡孫・信勝が武田家督を継ぐことを想定していたのです。
いわば予備、中継ぎ扱いされたことが勝頼の不幸。諏訪御料人と勝頼の母子は、なかなか扱いが難しいと思わざるを得ません。
※続きは【次のページへ】をclick!