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【信玄の妻】
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禰津御料人(禰津元直の娘)
戦国大名は、何もハーレム願望ありきで妻が複数いたわけではありません。
当時は妊娠と出産は危険が伴います。安産体質だとしても、産む数には限りがある。
しかも乳幼児死亡率が現在よりもはるかに高い時代であり、一定の権力者にとって複数の妻はリスク管理という意味合いがありました。
信濃国小県郡禰津の国衆である禰津氏は、天文10年(1541年)に武田信虎に敗北。
諏訪頼重を通して武田に臣従する道を選びました。
その過程で禰津元直の娘が武田信玄の側室となっています。
ちょうど年頃の娘がいたのでしょう。彼女は武田信清の母とされています。
油川夫人(油川源左衛門の娘)
油川氏は、甲斐武田氏13代当主である武田信昌の子・武田信恵を祖とし、武田氏の支流に属します。
もしも彼女が男子だったら、御一門衆として遇されていたかもしれません。
油川夫人には子が多く、しかも有名な人物が複数含まれています。
兄弟全員がほぼ何らかのカタチで注目される血筋と申しましょうか。
特に五男と六男にあたる仁科盛信と葛山信貞は、天正10年(1582年)の武田家滅亡に際して戦いぬき、その勇戦ぶりはいかにも信玄の子らしいとして、今でも語り継がれています。
上杉景勝の妻となった菊姫は、上杉家中でも尊敬を集める女性でした。
松姫は織田信忠との悲恋で知られます。家が滅びると武蔵に隠れ、そこで草庵を結び、生涯を終えました。
なお、油川夫人は元亀2年(1571年)に武田が滅びる前に没したと考えられています。
★
信玄の子には、母が不明または諸説ある者がいるばかりでなく、これ以外にも側室がいたと考えられています。
繰り返しますが、戦国大名にとっての婚姻とは、政治的意味合いが圧倒的に強い。
子を増やすことも、当時はリスク管理の一環なのです。
現代人目線から「ハーレムじゃん!」と浮かれると、勘違いしやすいのでご注意ください。
例えば信玄の場合も、諏訪御料人をあまりに政治的に扱い過ぎていて、ときに冷酷に思えるほど。
妻が何人いようと、色自体をあまり重んじない戦国大名も確かにいたんですね。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
黒田基樹『武田信玄の妻、三条殿』(→amazon)
『武田氏家臣団人名事典』(→amazon)
歴史読本『甲斐の虎 信玄と武田一族』(→amazon)
他