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政宗との逸話からも直江状の真意がうかがえる?
上記の通り上杉家と伊達家が水面下でピリピリしていたことを反映してか、政宗との逸話で二つもイヤミを言っています。
一つは、大坂城で大名とその側近が一堂に会したときのこと。
政宗の領地をはじめ、東北一帯は金が出ることで有名でしたから、「いっちょ自慢の小判を見せてもらえませんか」という話になりました。
自信満々で小判を取り出す政宗。居並ぶ大名へ順番に見るよう勧めます。
大名達は手に取っては「これはすごい」「さすがですな」とお世辞か本気かわからんコメントをしていきました。
そして兼続の番になったのですが、何故か彼は直に手に取らず、扇子を広げた上でぴょこぴょこひっくり返すという奇妙なことをし始めました。
これを見た政宗「大名じゃないからって遠慮しなくていいぞ。直に手に取って見ればいい」と気遣い半分&自慢半分で言ったのですが、対する兼続の反応がスゴイ。
「私は武士なので、このようなキタナイモノを直に手に取るわけには参りません^^」
そう言ってのけたのです。
本当に思ってた可能性も高いですが、このタイミングでこんなことを言ったら、政宗へも他の大名にもイヤミとしか取れませんよね。
兼続に関する本の中では「清廉潔白なことを示すエピソード」として紹介されていることが多いですが、その場の雰囲気を想像すると裸足で逃げ出したくなります。
「戦場から逃げる後姿ばかり見てた」
もう一つも実は政宗関連です。
これは江戸時代のもので、あるとき江戸城の廊下で兼続と政宗がすれ違うということがありました。
現代の会社でも、知り合いや上司とすれ違うときには目礼するなり「お疲れ様です」と一声かけるのが礼儀ですよね。
しかし、兼続は大名でもない一家臣だというのに、政宗を無視して通り過ぎたのです。
当然、政宗は「無礼ではないか」と咎めましたが、これに対する反応が「あぁすみません、戦場から逃げる後姿しか見たことがなかったのでwww」というものでした。
このとき政宗の右腕・片倉景綱がいたかどうか微妙なのですが、同伴していたら凄まじい口論になってたかもしれませんね。冷静な人なので刃傷沙汰にはならなかったでしょうけども。
というか、この二つの逸話が事実であれば顔を知らないわけはないはずですから、両方とも相当なイヤミですよね。
そしてどっちの話でも影の薄い景勝ェ……。
伊達家を支えた片倉小十郎景綱は政宗並にぶっ飛んでる? 59年の生涯まとめ
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まあそれはともかく、そんな感じで爽快な機転やユーモアというよりただのイヤミに近い言動が多かったらしいので、直江状があったにせよなかったにせよ、その内容と似たような態度を兼続が取り続けたのはおそらく事実でしょう。
家康は家康で最初から上杉家をよく思っていない上、タダで手駒にできるとも思っていなかったからこそ武力を使ったんでしょうし、腹の黒さではどっこいどっこいですかね。
大名や軍人、政治家といった国を担う仕事の人は、真っ白ではいられないとは思いますけれども。にしたって方向性が(´・ω・`)
なお、直江兼続の生涯そのものを記したのが以下の記事です。よろしければ併せてご覧ください。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
笠谷和比古『関ヶ原合戦と大坂の陣』(→amazon)
直江状/wikipedia
直江兼続/wikipedia
上杉景勝/wikipedia