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【武田義信】
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跡目争いに国衆の利権が絡み後に引けない
この手の話は、実は信玄と義信の親子関係に限った話ではありません。
他ならぬ信玄の祖父・武田信縄と曽祖父・武田信昌も激しく対立。
このときは跡継ぎ問題だけでなく関東勢の権力争いが甲斐にも絡んで、「甲州乱国」と記されるほどの混乱に陥りました。
他国を見てみれば、徳川家康が長男・松平信康を死なせた事件も、背景に浜松派と岡崎派の勢力争いがあったのではないか?という見方があります。
戦国時代は、単純な親子関係にとどまらず、周囲の武将たちも巻き込んでしまう。
ゆえに歯止めが効かなくなってしまうんですね。
そうでなければ、武功も立て、名門・甲斐武田家の跡取りとして育てられた武田義信を排除するメリットなど一つもありません。
義信だって、妻のことだけであればギリギリ我慢できたかもしれない。
なお信玄は、謀反の直後に信長の養女を武田勝頼の正室に迎えておりました。
その縁者を息子の妻に迎え入れるのですから、同時に今川との縁切りも完全に認めたようなものです。
こうした状況を踏まえて、義信やその一派はいよいよ追い詰められていたのでしょう。
結局、計画は事前に露見してクーデター一派は排除され、義信は亡くなってしまうのでした。
享年30。ちなみに……。
親織田路線の外交政策に踏み切った信玄の様子を見て、今川氏真は越後の上杉謙信に使者を派遣。
もしも信玄が駿河へ攻め込んだら、「背後から武田を攻撃して欲しい」と協力を要請しておりました。
氏真もボーッとしてたワケじゃないんですね。
しかし、武田による今川家臣の寝返り調略は既に進められており、こうした氏真の動向も筒抜けだったと言います。
もうね。信玄さん怖すぎる。
こんな御方を相手にクーデターを画策しようなんて……あらためて義信が不憫でなりません。
母・三条夫人が具足を奉納していた
真偽の程は今後の研究を待つとして、最後にホロリとくる話をひとつ。
義信の家臣が事の発覚前に、美和神社(山梨県笛吹市)に太刀を奉納したことがあります。
ここは武田家が崇敬していた神社で、別段おかしなことではありません。
この神社に、義信が幽閉されている最中である永禄九年(1566年)、母である三条夫人が具足を奉納しているのです。
三条夫人は息子の解放や武運を願って、願掛けをしたのでしょうね。
カーチャン……(´;ω;`)ブワッ
なお、三条夫人については、フィクションではクセのある、どこか悪役として描かれがちです。
ときに信玄と不仲であったなんて囁かれたりもしますが、実際は、京都の親類を通じて夫・信玄の手助けをするなど、むしろ良い奥様だったと見る方が自然かもしれません。
詳細は以下の記事に譲りますのでよろしくご覧ください。
※信玄と信虎、さらには勝頼の人物伝も併せて掲載しております
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長月 七紀・記
小久ヒロ・絵
【参考】
武田氏研究会『武田氏年表 (信虎・信玄・勝頼)』(→amazon)
丸島和洋『戦国大名武田氏の家臣団―信玄・勝頼を支えた家臣たち』(→amazon)
武田義信/wikipedia
美和神社_(笛吹市)/wikipedia