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【武田義信】
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川中島の激戦でも手傷を負いながら大活躍
北信濃を完全制覇して、あわよくば越後の海まで欲しい信玄と、北信濃を緩衝地帯にして武田家の侵略を阻みたい謙信。
一般的に、都合五度に渡って【川中島の戦い】が行われたことがよく知られておりますが、ほかならぬ武田義信も永禄四年(1561年)の第四次川中島の戦いにおいて、戦功を挙げたという話があります。
義信が謙信の本陣を襲撃し、謙信自身が槍を取らねばならないほどだった――。
なんてされますが、もし本当にそんな展開でしたら、信玄と謙信の一騎打ちより有名な逸話になっていたかもしれません。
おそらく急襲はしたのでしょう。
しかし、戦果については、少し割り引いて考える必要がありそうです。
川中島の戦いについては記録がハッキリしませんし、後世に書き換えられたのかもしれません。
いずれにせよ当時24歳の若武者であり跡取りながら手傷を負うほどの激戦をこなしており、文句のない活躍だったとは考えてもよさそうです。
その後は、武蔵松山城の包囲戦に加わったり、家臣・国衆との面会に応じたり、あるいは寺社への寄進の任を務めたり。
次期当主としての仕事をこなし、頼もしい若武者に成長していった義信。
暗雲は突如立ち込めます。
永禄八年(1565年)10月、「信玄暗殺計画に関与した」として、いきなり東光寺(山梨県甲府市)に幽閉されてしまったのです。
そしてその2年後に病死となってしまうのですが、なぜ、こんな事態になってしまったのか。
その辺の事情を掘り下げて見てみましょう。
悪いのは飯富であり義信との関係は問題ない、と言うが
信玄の暗殺計画はいかにして進められたのか?
そもそも主導したのは義信ではなく、傅役・飯富虎昌やその他の側近たちが密談していたとも言われています。
派閥争いですね。
飯富虎昌は、武田の赤備えを率いた勇将として知られ、武田軍の中枢を支えていた重臣の一人。
ゆえに義信も預けられていたのでした。
しかし、その計画は、虎昌の身内から漏れてしまいます。
虎昌の弟(あるいは甥 / 後の山県昌景)が信玄に密告して、事態の収束が進められたのです。
結果、永禄八年(1565年)10月15日に首謀者の飯富虎昌は成敗されます。
しかし、この段階での信玄は義信を殺すつもりはなかったようで、
「飯富虎昌が我々の仲を引き裂こうとしたゆえに始末したのであり、義信との親子関係は問題ない」
という趣旨の手紙を上野の小幡源五郎へ送っています。
禅僧の仲介なども経て、信玄と義信の親子で話し合いが持たれたとも言い、それでも結局合意に至らなかったのでしょう。
なぜ義信は頑ななまでに信玄に背いたのか。
背後にあったと考えられるのは、武田家外交戦略の方針転換でした。
弱体化した今川を攻めるのは明らかに正解だが
これに先立つ永禄三年(1560年)。
桶狭間の戦いによって今川義元が討ち死にし、今川家の先行きは一挙に暗いものとなりました。
確かに義元の母である寿桂尼が家中をよくまとめ、踏ん張ってはいます。
しかし、それも一時のこと。
義元から代替わりした今川氏真では、やはり大名としての器量不足は否めず、同家の将来は大いに不安です。
信濃より北へ行こうとすれば上杉謙信が立ちはだかり、南では今川氏真が待っている――もう、どちらへ攻め込むのが正解なのか、火を見るより明らかですよね。
問題は、武田義信の妻が今川義元の娘(嶺松院)ということでした。
太原雪斎が中心になって手掛けたともされる【甲相駿三国同盟】により
・武田
・今川
・北条
の間では息子や娘たちの婚姻関係が結ばれておりました。
武田家では今川から娘を受け取る代わりに、信玄の娘・黄梅院を北条氏政の妻へと送っています。
北条からは今川氏真のもとへ早川殿という妻が嫁いておりました。
このとき信玄は、敵対する村上義清に対し、
「今川から嫁を貰って同盟組むこと決まったから、降伏しちゃいなよ。じゃないと本気で攻め込むよ」
というプレッシャーを与えたとも考えられています。
かように同盟メリットを散々利用しておきながら、いざ義元が亡くなったら掌を返す――。
そんな父親の冷酷無比ぶりが義信にとっては気に入らなかったのか。
あるいは妻の実家である今川へ攻め込むなど言語道断!と思ったのか。
ドラマや漫画では上記2つの要因で謀反が表現されがちですが、実際はそう単純でもなく、背景には国衆たちの利権問題も絡んでいたという憶測が強いです。
要は、今川と仲良くしていた方が利益のある国衆たちがいて、義信も彼等に担ぎ上げられたのではないか、とする見方ですね。
そして……。
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