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【大坂夏の陣】
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六日 八尾・若江の戦い
道明寺の戦いが上記のようにド派手な経緯だったため影が薄くなりがちですが、別方面でも熾烈な戦いが繰り広げられていました。
以下のような布陣です。
【豊臣方】
・長宗我部盛親
・木村重成
【徳川方】
・藤堂高虎
・井伊直孝
ただし、木村隊では兵がなかなか言うことを聞かなかったり、道を間違えて沼地に突っ込んだりと決してスムーズな行軍ではなかったようです。この時点で嫌な予感がプンプンしますね。
長宗我部隊のほうは、お家が改易されたとはいえ元家臣たちが何人かいたので、木村隊よりはマシだったようです。
対戦の組み合わせとしては長宗我部隊vs藤堂隊(八尾の戦い)、木村隊vs井伊隊(若江の戦い)。
もちろん他の武将もたくさんいますが割愛しております。
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まず八尾方面では、盛親が騎馬隊も全て下馬するように言いつけ、物陰に伏せさせていました。そして藤堂隊が間近に迫ったところで立ち上がり、一斉に槍を繰り出して混乱させたのです。
この作戦が功を奏し、藤堂隊では先方にいた高刑(たかのり・高虎の甥っ子)が戦死するほどの被害が出ます。
退却中にも藤堂家の人が亡くなり、さらに終始長宗我部隊のほうに勢いがあったため、この戦い(八尾の戦い)は数少ない大阪方の勝利となります。
盛親の代に長宗我部家が滅びてしまったので、彼の評判は戦国武将としてはあまりよくないですが、この戦いを見る限りではさすが長宗我部元親の息子という感じがしますね。
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若江方面では、道中のgdgdを振り切る勢いで木村隊が頑張ります。
地形を活かし敵を誘い込んで銃撃しようとすると、その前に井伊隊が転進して、白兵戦がスタート。
重成自身も槍を振るって戦いましたが、この方面では徳川方のほうが圧倒的な兵数だったこともあり、残念ながら敗れてしまいます。
ただ、井伊隊に与えた損害も大きく、翌日の戦いで務めるはずだった先鋒を辞退するほどでした。
これは藤堂隊も同じです。
徳川圧勝も遺恨を残す展開に
この方面での戦いでは、さらに徳川方でイヤなオチがついています。
実は徳川方の後方に松平忠直(結城秀康の息子)がいたのですが、彼はこの戦いの家康からこっぴどく怒られているのです。
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なぜか?
と言うと「味方が有利になったタイミングで一緒に攻めるべきだったのに、何もしなかったのはどういうわけだ!」という理由でした。
戦の前に家康から「勝手な行動を慎め」と言われていたため、忠直は素直にその言いつけを守っただけなのです。
「言うこと聞いたのに何で怒られなきゃいけないんだよ!」とキレたくもなったでしょう。
戦の経験が豊富とはいえない忠直にベストな時期を見計らえという家康も無茶振りですし、言いつけを素直に受け取りすぎた忠直もそれはそれで問題かもしれません。
こんな感じで、双方翌日の戦に大きな影響を残して6日の戦闘は終わりました。
こうしてみると、大坂方もかなり奮戦していたことがわかりますね。
しかし、翌7日は大坂城の陥落へと繋がってしまいます。
方角としては大坂城の南側二ヶ所。
天王寺口と岡山口でそれぞれ激戦が繰り広げられました。
戦闘が開始されたのはどちらも正午頃、終了も午後三時とほぼ同時進行ですが、ややこしいので一つずつ見てみましょう。
七日 天王寺口の戦い
一番有名なのは、やはり真田幸村(信繁)でしょう。
他には……。
大谷吉治(よしはる):関が原で義に殉じて亡くなった大谷吉継の息子
明石全登:前日も信繁と同じく奮戦
毛利勝永:実は道明寺の戦いで殿軍(しんがり・戦場から最後に撤退する軍)を任されていた
細川興秋:細川忠興の次男で家を飛び出していた
前日多くの将を失っていながらまだ人材が残っていました。
八尾の戦いで勝利を収めていた長宗我部盛親は、兵の損耗が激しかったため前線には出てこれず、北側の守備にまわりました。
このことからも、おそらく長宗我部隊に元家臣が多かったであろうことが推測できますね。
徳川方では、ざっくり言うと戦国時代に名を馳せた人物の息子達を主とした布陣がされています。
例えば無傷伝説こと本多忠勝の息子・本多忠朝、浅野長政の息子・浅野長晟(ながあきら)などです。
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戦国武将でも比較的若手(だいたい1550年代以降生まれ)の人の場合は、本人はもちろん息子と一緒に参戦している例もあります。
細川忠興や伊達政宗などですね。
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家康も息子どころか孫連れですから、これが戦でなければ心温まる一家団欒といいたいところなのですがそうもいきません。
既に大御所となっていた家康の本陣があったため、どこの軍も戦々恐々とした面持ちだったことでしょう。
口火を切ったのは、豊臣方・毛利隊による銃撃でした。
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