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【大坂夏の陣】
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激戦も数にまさる徳川軍が勝利し
かくして、どの方面でも大坂方の敗北に終わり、戦闘は三時間ほどで終了。
その一時間後には内通者が大坂城に火をつけ、ここに豊臣家は滅亡を迎えました。
火の勢いはすさまじく、京の街からも見えたほどだったといいます。
翌8日、秀頼と淀殿は引き上げてきた毛利勝長に介錯され、形式的にも実質的にも豊臣家は秀吉の辞世の句がごとく、なにわの夢と消え去ったのでした。
なお、秀頼の妻であり、家康の孫・千姫は事前に城を脱出しておりました。

豊臣秀頼(右)と千姫/wikipediaより引用
さて、この戦いで死んだはずの人々の生存説もあります。
特に有名なのは「真田幸村が豊臣秀頼を連れて、薩摩まで逃げた」というものです。
”花の様なる秀頼様を、鬼の様なる真田が連れて、退きも退いたり鹿児島へ”
という唄にもなっています。どんな節だったんですかね。
この頃の秀頼は、祖父・浅井長政似の超巨漢(身長190cm以上・体重160kg超)だったそうなので、もしこれが本当なら「花」というより「スイカ」とか「かぼちゃ」が似合うような気が……豊臣ファンの皆さま、スミマセン。
源義経=チンギス・ハン説ほどのトンデモではありませんが、あくまで俗説であり、信憑性はありませんよね。
秀頼生存説がさらに発展して、島原の乱の首領・天草四郎が秀頼の息子という話にまで派生していたりします。いやいや、こじつけにも程があるやろ。
幸村の遺体も明石の遺体も……
武将の中では明石全登の行方がわからなくなっており、やはり生存説が囁かれています。
が、こちらは松平忠直隊に突撃の後行方不明ということらしいので、おそらく遺体が見つからなかっただけで、戦死していた可能性が高そうです。
真田幸村も、実際は乱戦の中で首を落とされ、後の首実検で初めて気づいた――というのが実情のようです。
【休んでいたところ敵兵がやってきたので首を差し出した】というのは後世の作り話でしょう。

絵・富永商太
これによって戦国の世が終わりを告げたことに安心したのか、ついにエネルギーが切れたのか、翌年には家康も亡くなり、まさに一つの時代が終焉に向かいます。
約二十年後島原の乱が起きましたが、幕府軍の戦い方は大坂の陣(冬の陣と夏の陣を合わせた呼び方)に参戦していた大名からは「まったく今時の若いモンはたるんどる!」(超訳)というお決まりの罵声が飛びました。
そのくらい時勢が変わっていたんですね。
もしくは、そこまで諸大名を骨抜きにした江戸幕府の政策がすげえという話にもなるでしょうか。
豊臣家の滅亡に目が行ってしまいますけれども、実はとても大きな歴史の節目だったんですねえ。
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長月七紀・記
【参考】
国史大辞典
笠谷和比古『関ヶ原合戦と大坂の陣 (戦争の日本史 17)』(→amazon)
大坂の陣/wikipedia