大坂夏の陣

大坂夏の陣図屏風/wikipediaより引用

徳川家

大坂夏の陣~全貌がわかる各武将の戦闘まとめ~幸村や又兵衛の散り際

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幸村の前に奮戦した部隊がいたからこそ

いつの時代も先手必勝というのは変わらないようで、勢いに乗って本多忠朝を討ち取ります。

別の隊もこれに乗って前進し、家康本陣を丸裸にするほどでした。

真田信繁が家康の本陣を襲撃した」という話はこのときのものです。

島津忠恒の言葉【真田は日の本一の兵(ひのもといちのつわもの)】があまりに有名すぎるため、まるで幸村一人の功績にも思えてしまいますが、実はその前に勇戦した部隊がいたんですね。

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大坂方は何度も退いては攻め、攻めては引きを繰り返しました。

が、絶対的な兵数の差により少しずつ押し返されてしまいます。

そして信繁は、前日家康の叱責(イチャモン)にブチ切れていた松平忠直隊によって討ち取られ、他の隊も乱戦の中で主将を失い壊滅状態に陥ります。

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最後まで戦線を保っていたのが、戦をおっぱじめた毛利隊だったというのが何ともいえません。

もちろんサボっていたわけではなく、四方を囲まれたため仕方なく城へ引き上げています。

 

岡山口の戦い

こちらは天王寺口の戦闘が開始されてから、追いかけるような形で戦が始まっています。

後見についていた立花宗茂

「秀忠様が出て行くと的になってしまいますので、後ろでどっしり構えていてください」

と言ったにもかかわらず、血気にはやる現役将軍・徳川秀忠は前進してしまい、父親と同じく大坂方から突撃を受けてしまいます。あーあ。

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大阪方は大野治長・治房兄弟など、現代の一般人からすればあまり猛将のイメージがない人々でした。

それでも、秀忠の陣は大混乱に陥ります。

秀忠にとって当初は「待ってました!」という状況だったようですが、お目付けに来ていた本多正信に「いやいや、上様が御自ら手を出すまでもありません(だから大人しくしてろボケ)」となだめられています。

この頃秀忠は30代半ばですし、将軍様ですからね。

よほど関が原での大遅刻や、冬の陣の際、無茶な行軍をして家康に怒られたのを気にしていたと見えます。

ちなみに、後方のほぼ見学席といってもいいようなところには徳川義直徳川頼宣といった幼い弟達がおりました。

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混乱が落ち着いてからはやはり数で勝る徳川方が有利になり、秀忠の周辺も守りを固め、大野隊他大阪方を押し返します。

形勢逆転を見た大坂方は秀頼自らの出馬を待っていたといわれますが、淀殿が納得せず、結局間に合いません。

後方のお飾りであっても、総大将が戦場にいるだけで士気は上がる。というか、そうでないと戦う気力も湧いてきませんよね。

淀殿は、織田信長の姪っ子なのに(信長の妹・お市の方の娘)、その辺、残念だったなぁ、と。

 

激戦も数にまさる徳川軍が勝利し

かくして、どの方面でも大坂方の敗北に終わり、戦闘は三時間ほどで終了。

その一時間後には内通者が大坂城に火をつけ、ここに豊臣家は滅亡を迎えました。

火の勢いはすさまじく、京の街からも見えたほどだったといいます。

翌8日、秀頼と淀殿は引き上げてきた毛利勝長に介錯され、形式的にも実質的にも豊臣家は秀吉の辞世の句がごとく、なにわの夢と消え去ったのでした。

なお、秀頼の妻であり、家康の孫・千姫は事前に城を脱出しておりました。

その後の生涯については……以下の記事をご覧いただければと存じます。

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さて、この戦いで死んだはずの人々の生存説もあります。

特に有名なのは「真田幸村豊臣秀頼を連れて、薩摩まで逃げた」というものです。

”花の様なる秀頼様を、鬼の様なる真田が連れて、退きも退いたり鹿児島へ”

という唄にもなっています。どんな節だったんですかね。

この頃の秀頼は、祖父・浅井長政似の超巨漢(身長190cm以上・体重160kg超)だったそうなので、もしこれが本当なら「花」というより「スイカ」とか「かぼちゃ」が似合うような気が……豊臣ファンの皆さま、スミマセン。

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源義経=チンギス・ハン説ほどのトンデモではありませんが、あくまで俗説であり、信憑性はありませんよね。

秀頼生存説がさらに発展して、島原の乱の首領・天草四郎が秀頼の息子という話にまで派生していたりします。いやいや、こじつけにも程があるやろ。

 

幸村の遺体も明石の遺体も……

武将の中では明石全登の行方がわからなくなっており、やはり生存説が囁かれています。

が、こちらは松平忠直隊に突撃の後行方不明ということらしいので、おそらく遺体が見つからなかっただけで、戦死していた可能性が高そうです。

真田幸村も、実際は乱戦の中で首を落とされ、後の首実検で初めて気づいた――というのが実情のようです。

【休んでいたところ敵兵がやってきたので首を差し出した】というのは後世の作り話でしょう。

これによって戦国の世が終わりを告げたことに安心したのか、ついにエネルギーが切れたのか、翌年には家康も亡くなり、まさに一つの時代が終焉に向かいます。

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約二十年後島原の乱が起きましたが、幕府軍の戦い方は大坂の陣(冬の陣と夏の陣を合わせた呼び方)に参戦していた大名からは「まったく今時の若いモンはたるんどる!」(超訳)というお決まりの罵声が飛びました。

そのくらい時勢が変わっていたんですね。

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もしくは、そこまで諸大名を骨抜きにした江戸幕府の政策がすげえという話にもなるでしょうか。

豊臣家の滅亡に目が行ってしまいますけれども、実はとても大きな歴史の節目だったんですねえ。

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長月七紀・記

【参考】
国史大辞典
笠谷和比古『関ヶ原合戦と大坂の陣 (戦争の日本史 17)』(→amazon
大坂の陣/wikipedia

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