人質時代の竹千代

徳川家康像(駿府城本丸跡)photoby戦国未来

徳川家

竹千代(家康の人質時代)は織田と今川の下でどんな幼少期を過ごした?

大河ドラマ『麒麟がくる』で話題になった徳川家康の幼少期。

竹千代という名の少年家康が人質として屋敷に囚われ、明智光秀の籠に隠れるシーンは、見ていて辛いものがあった。

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後の天下人になるとはいえ、当時はまだまだ幼い少年が、なぜ、あのような過酷な目に遭わねばならなかったのか。

常人には得難い感性を己の中に醸成させ、征夷大将軍となった家康。

その姿は2023年大河ドラマ『どうする家康』でも描かれるはずで、本稿では苦難の「竹千代」時代にスポットを当ててみたい。

 

竹千代が生まれたとき鳳来寺の真達羅大将が消えた!?

徳川家康は岡崎城(愛知県岡崎市)で生まれた。

幼名は前述の通り「竹千代」。

父は岡崎城主の松平広忠(安祥松平家第5代宗主・後に松平宗家8代宗主)で、母は水野忠政の娘・於大の方(伝通院)である。

2人はなかなか子宝に恵まれず、鳳来寺へ子授けの祈願に行くと、「寅年、寅月、寅日、寅の刻」に竹千代が生まれ、同寺の「真達羅大将(しんだらたいしょう)」が消えたという。

真達羅大将とは、本尊・薬師如来(峯之薬師)を守る十二守護神の一人(寅神)。

家康の死後、境内には「鳳来山東照宮」が建てられ、参道に阿吽の狛犬ならぬ狛虎が置かれた。

ちなみに鳳来寺は、徳川四天王の一人・井伊直政が虎松と呼ばれ、今川家に命を狙われていたときに匿われていた寺でもある。

参道の阿吽の虎(鳳来山東照宮)

参道の阿吽の虎(鳳来山東照宮)

竹千代という名は、連歌の会「夢想之連歌」で詠まれた

「めぐりはひろき園のちよ竹」

に由来する。

稱名寺(碧南市築山町)で行われた催しであり、「徳川家祖廟」(松平初代親氏らの廟所)、渡宋天満宮、三州大浜東照宮がある、いずれも同家にとって縁の深い場所だ。

「竹千代」命名の寺・稱名寺(碧南市)

「竹千代」命名の寺・稱名寺(碧南市)

武家の長男として、期待と不安が予期されたであろう竹千代は、6歳にして最初の試練が始まった。

三河国の西から攻め入ってきた織田信秀(信長の父)に対抗するため、宗主・松平広忠が援軍を求めた相手は遠江駿河の支配者・今川義元であった。

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人質をよこせば、援軍を送る──。

そんな義元の要求に応じた松平広忠と竹千代は、ここで予期せぬ不幸に遭遇する。

駿府に送り届ける途中、田原城主・戸田康光によって奪還され、そのまま敵方の織田信秀へ売られてしまったのだ。

竹千代は、熱田の豪商・加藤図書助順盛の屋敷「羽城」に幽閉された。現在の名古屋市熱田区伝馬である。

それにしても……なぜ戸田氏は竹千代を奪ったのか。

原因は、過去に今川義元に攻められたことだともいうが、真相は今なお不明である。

 

雪斎が信広を生け捕りにして、竹千代と人質交換

天文18年(1549)年3月6日、松平広忠が死んだ。

このとき8歳になっていた竹千代は、織田家での人質生活が続いており、父の死に目に会うことは出来ていない。

にわかに事態が動き出したのは、今川義元の軍師・太原雪斎がキッカケであった。

僧侶(臨済寺二世住職)でありながら、織田方の安祥城を陥落させた雪斎は、織田信広(織田信秀の側室の子・織田信長の庶兄)を生け捕りしにし、笠覆寺(名古屋市南区笠寺上新町)で【竹千代との人質交換】を成し遂げたのである。

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居城の岡崎城には、今川家臣が城代として入城し、三河国は実質的に今川氏の属領となった。

まだ8歳の竹千代は、駿府の松平屋敷(通称:竹千代屋敷or人質屋敷)で暮らすことになる。

竹千代は、駿府の松平屋敷に入るとすぐに礼服に着替え、少将宮で武運長久の祈願をしてから、今川義元と対面したと伝えられている。

後の天下人らしく、字面からも幼き頃から利発そうな雰囲気が伝わってくる。

あるいはこれが武家の子息の覚悟だろうか。

安祥城跡(安城市)

安祥城跡(安城市)

 

「三河の小倅の顔を見るのは飽き飽きだ!」

駿府の松平屋敷は、孕石(はらみいし)屋敷と北条屋敷の間にあったという。

孕石屋敷には今川家臣の孕石元泰(はらみいしもとやす)がいた。竹千代が飼っていた鷹が、獲物や糞を孕石屋敷に何度も落とし、その度にわびに行くと、「三河の小倅の顔を見るのは飽き飽きだ!」と言って竹千代を叱ったという。

竹千代は、家康になってもその屈辱を覚えていた。

【第二次高天神城の戦い】で高天神城の落城後、切腹させられた唯一の城兵がこの孕石元泰。

このとき初めて「わしもお前の顔を見るのは飽き飽きだ」と言い返したという。孕石屋敷は、徳川家臣の板倉屋敷になった。

「鷹それて孕石主水が家の林中に入りければ、そが中にをし入りて据上げ給ふ事度々なり。主水わづらはしき事に思ひ、「三河の悴にはあきはてたり」といふをきこしめしけるが、年經て後、高天神落城して孕石生擒に成て出ければ、「彼、わが尾張に在し時、我を『あきはてたり』と申たる者なれば、いとまとらするぞ。されど武士の禮なれば切腹せよ」とて、遂に自殺せしめられしなり。」(『東照宮御實紀』(附錄卷一)。

一方、北条屋敷には、人質として小田原から送り込まれていた北条氏規がいた。

氏規は、寿桂尼の孫(北条氏康寿桂尼の娘の子)でもあり、よく油山温泉へ湯治に行ったとあり、「人質」というよりも「祖母預け」とも考えられている。

今川氏の竹千代に対する待遇も、従来は「人質」と考えられていたが、暗い座敷牢に幽閉されていたわけではない。

最近は「岡崎城主と考えられて優遇され、太原雪斎に学ばせた」とか「将来の岡崎城主=三河領主になるための“政務見習い”として預けられた」とする説すら出てきている。

ただ、松平衆(三河衆)の扱いは悲惨だったようで、『東照宮御實紀』には、「三河国は義元の思うがままで、合戦において、松平衆は、先鋒(最も早く戦い始め、退却時は最後尾になる過酷な役)にさせられた」という。

「十一月廿二日、竹千代君また駿府へおもむきたまひしかば、義元は少將宮町といふ所に君を置まいらせ、岡崎へは駿河より城代を置て、國中の事今は義元おもふまゝにはかり、御家人等をも毎度合戰の先鋒に用ひたり。君かくて十九の御歲まで今川がもとにわたらせらる」(『東照宮御實紀』)

なお、竹千代にも当然ながら祖母(源応尼のちの華陽院)がいて、両親が離婚した3歳の頃は度々面倒を見てもらっていた。今川での人質時代にも、病気を患ったときには祖母に看病してもらったという話もある。

また、竹千代は、臨済寺の太原雪斎に学ぶこともあったといい、臨済寺(当時の寺は焼失)には、

臨済寺(静岡市葵区大岩町)

臨済寺(静岡市葵区大岩町)

江戸時代に復元された「竹千代手習いの間」がある。

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