こちらは3ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【竹千代】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
初恋の相手は鶴姫とも亀姫ともお田鶴とも
松平次郎三郎元信は、次に「松平蔵人元康」と改名した。
「信」は「信長」に通じるのでこれを排し、尊敬する祖父・松平清康の「康」に替えたという。
竹千代(元信・元康)の駿府での人質生活は、8歳から19歳までであった。
今で言えば、小学2年生から大学2年生までである。その間、ごく普通の青少年らしく初恋もあったと伝わる。
竹千代初恋の相手は、鶴姫(瀬名姫・今川義元の姪で後の築山殿)とも、亀姫とも、お田鶴の方(引馬城主・飯尾連龍室)とも。
16歳のときに、今川義元のとりなしで瀬名姫と結婚。
家康の正室・築山殿(瀬名姫)はなぜ殺された?家康には重たい女と思われていた?
続きを見る
井伊家の史料では、瀬名姫が井伊直平の孫であり、直平と昵懇の間柄であった松平広忠が相談して婚姻を勧めたとあるが、このとき広忠は既に他界している。
「竹千代君、御とし十五にて、今川治部大輔義元がもとにおはしまし、御首服を加へたまふ。義元、加冠をつかうまつる。関口刑部少輔親永(一本義廣に作る)、理髪し奉る。義元、一字をまいらせ、「二郎三郎元信」とあらため給ふ。時に弘治二年正月十五日なり。その夜、親永が女をもて北方に定めたまふ。後に「築山殿」と聞えしは此御事なり。」(『東照宮御實紀』)
そして1560年、今川、徳川、さらには井伊一族の運命を変えた大事件が起きる。
【桶狭間の戦い】である。
桶狭間の戦い 信長の勝利は必然だったのか『信長公記』にはどう書かれている?
続きを見る
桶狭間直後の家康は絶望のあまり自害を試みた?大高城~岡崎城の撤退ルートを辿る
続きを見る
結果的に織田信長と今川義元が雌雄を決したこの一戦。
当時の井伊家宗主・直盛と共に先鋒を務めた松平元康は、敗戦後、岡崎へ帰り大樹寺の先祖代々の墓の前で自害(殉死)しようとした。
しかしここで登誉上人に「厭離穢土・欣求浄土」と励まされ、自害を思いとどまったという。
「厭離穢土・欣求浄土」とは?
穢れた国土を嫌って離れ、清浄な国土を好んで求めよ。
自分の欲望のために戦っているから、国土が穢れきっている。
領民のために、平和のために戦うのであれば、必ず仏の御加護を得て事を成すであろう。
天下泰平を願った松平親氏の血をひくそなたであれば、平和な世に変えられる
なお、このとき岡崎城は今川方の飯尾乗連、二俣持長、山田景隆の3人が城代であったが、彼らが城を捨てて逃げたので、元康は、
「捨てられた城ならば、拾おう」
と言って城へ入り、岡崎城主となった。
「駿河衆、岡崎之城ヲ明て退キケレバ、其時、「捨城ナラバ広ハン」ト仰有て、城え移ラせ給ふ。」『三河物語』
桶狭間の戦いから岡崎城主への道のりについては、以下の記事にまとめたので、併せてご覧いただければ幸いである。
桶狭間直後の家康は絶望のあまり自害を試みた?大高城~岡崎城の撤退ルートを辿る
続きを見る
あわせて読みたい関連記事
信長の兄・織田信広は家督を継げずに謀反を画策?それでも信長に重用された理由
続きを見る
徳川家康はなぜ天下人になれたのか?人質時代から荒波に揉まれた生涯75年
続きを見る
なぜ今川義元は海道一の弓取りと呼ばれる?42歳で散った生涯とは
続きを見る
家康の母「於大の方」はなぜ出産後すぐに離縁となった?75年の生涯
続きを見る
織田信秀(信長の父)は経済も重視した勇将~今川や斎藤と激戦の生涯
続きを見る
義元を支えた黒衣の宰相「太原雪斎」武田や北条と渡り合い今川を躍進させる
続きを見る
著者:戦国未来
戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。
モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派。今後、全31回予定で「おんな城主 直虎 人物事典」を連載する。
自らも電子書籍を発行しており、代表作は『遠江井伊氏』『井伊直虎入門』『井伊直虎の十大秘密』の“直虎三部作”など。
公式サイトは「Sengoku Mirai’s 直虎の城」
https://naotora.amebaownd.com/