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【竹千代】
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「三河の小倅の顔を見るのは飽き飽きだ!」
駿府の松平屋敷は、孕石(はらみいし)屋敷と北条屋敷の間にあったという。
孕石屋敷には今川家臣の孕石元泰(はらみいしもとやす)がいた。
竹千代が飼っていた鷹が、獲物や糞を孕石屋敷に何度も落とし、その度にわびに行くと、「三河の小倅の顔を見るのは飽き飽きだ!」と言って竹千代を叱ったという。
竹千代は、家康になってもその屈辱を覚えていた。
【第二次高天神城の戦い】で高天神城の落城後、切腹させられた唯一の城兵がこの孕石元泰。
このとき初めて「わしもお前の顔を見るのは飽き飽きだ」と言い返したという。
孕石屋敷は、徳川家臣の板倉屋敷になった。
「鷹それて孕石主水が家の林中に入りければ、そが中にをし入りて据上げ給ふ事度々なり。主水わづらはしき事に思ひ、「三河の悴にはあきはてたり」といふをきこしめしけるが、年經て後、高天神落城して孕石生擒に成て出ければ、「彼、わが尾張に在し時、我を『あきはてたり』と申たる者なれば、いとまとらするぞ。されど武士の禮なれば切腹せよ」とて、遂に自殺せしめられしなり。」(『東照宮御實紀』(附錄卷一)。
一方、北条屋敷には、人質として小田原から送り込まれていた北条氏規がいた。
氏規は、寿桂尼の孫(北条氏康と寿桂尼の娘の子)でもあり、よく油山温泉へ湯治に行ったとあり、「人質」というよりも「祖母預け」とも考えられている。
今川氏の竹千代に対する待遇も、従来は「人質」と考えられていたが、暗い座敷牢に幽閉されていたわけではない。
最近は「岡崎城主と考えられて優遇され、太原雪斎に学ばせた」とか「将来の岡崎城主=三河領主になるための“政務見習い”として預けられた」とする説すら出てきている。
ただ、松平衆(三河衆)の扱いは悲惨だったようで、『東照宮御實紀』には、「三河国は義元の思うがままで、合戦において、松平衆は、先鋒(最も早く戦い始め、退却時は最後尾になる過酷な役)にさせられた」という。
「十一月廿二日、竹千代君また駿府へおもむきたまひしかば、義元は少將宮町といふ所に君を置まいらせ、岡崎へは駿河より城代を置て、國中の事今は義元おもふまゝにはかり、御家人等をも毎度合戰の先鋒に用ひたり。君かくて十九の御歲まで今川がもとにわたらせらる」(『東照宮御實紀』)
なお、竹千代にも当然ながら祖母(源応尼のちの華陽院)がいて、両親が離婚した3歳の頃は度々面倒を見てもらっていた。今川での人質時代にも、病気を患ったときには祖母に看病してもらったという話もある。
また、竹千代は、臨済寺の太原雪斎に学ぶこともあったといい、臨済寺(当時の寺は焼失)には、
江戸時代に復元された「竹千代手習いの間」がある。
増善寺の和尚に連れられ、コッソリと父の墓へ
元服して竹千代から元信となった翌年のこと。
父・松平広忠の墓参という名目で、岡崎への里帰りを許された。
公式には、これが初の墓参だとされているが、別の説もある。
増善寺文書や可睡斎文書には、竹千代が増善寺(静岡市葵区慈悲尾)の等膳和尚に「岡崎へ墓参に行きたい」と告げると、和尚が竹千代を藤篭(増善寺境内の案内板には「葛篭」とある)に入れて背負い、持舟湊(現・用宗港/増善寺境内の案内板には「清水港」とある)まで運んで密かに実現させたとある。
この縁で、等膳和尚は、可睡斎(静岡県袋井市)の住職となり、駿河・遠江・三河・伊豆4ヶ国の曹洞宗を統括する僧録の位を得たという。
大林寺(岡崎市魚町)の松平広忠の墓の横に奇妙な形の石が置かれている。
案内板には、
「獅子頭の石 徳川家康公が八才の時、広忠の廟参の時に、納めたものと伝えられている」
とある。
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