戦国時代の「かぶき者」と言えば、何といっても「前田慶次」だろう。
マンガ『花の慶次』で、広く知れ渡った人物である。
天下人の前でも己を曲げることなく、誰よりも優しく、そして強い。まさに男が惚れる男として描かれていた。
しかしながら、歴史上の「前田慶次郎利益」を調べると、どうもマンガのような人ではなかったらしい。
なにしろ、資料によって生没年が違うため、正確な年齢さえ不明なほどである。
武功としては長谷堂撤退戦が、記録に残るほぼ唯一のものだろう。あとはほとんどのことが、分からずじまいである。
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だが、ここで「やっぱり、あんな男いるはずないよね」と思われるのは、まだ早い。
実在する戦国武将でも、まるでマンガのような活躍をした人物は、確かにいた。
その名も水野勝成という。
一般への知名度は低いが、その武功の数々は、驚くばかりである。
この男の人となりを『名将言行録』では
「倫魁不羈(りんかいふき)」
と記している。
「あまりに凄すぎて、誰にも縛りつけることはできない」という意味である。
その通り、勝成は戦国の世で、我を貫き通した。
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勝成を雇った家は水野家の敵である
水野勝成は三河刈谷の領主・水野重忠の長男として生まれた。
血筋としては、天下人・徳川家康の従兄弟にあたる。
齢十六の時、勝成は高天神城での戦いで、幾つもの首級を上げ、織田信長から感状を受けた。同時に永楽銭の旗印まで貰っているほどなので、よほどの活躍ぶりだったのだろう。
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続く【天正壬午の乱】でも、勝成は大暴れした。
徳川本軍の裏をかいて攻めてきた北条勢一万に対し、手駒数百名のみを引き連れ、抜け駆けで攻め込んだのである。
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北条勢は大混乱に陥り、潰走――勝成は獲った首級三百を道に吊るし、敵の士気を完全に削いだという。
小牧・長久手の戦いでは、目を怪我していたらしく、兜を外して出陣した。
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それを見た父・忠重は、勝成を叱った。
だが勝成は「うるせえ、黙って見てろ!」と言い残し、馬で駆け、一番首を獲って帰ってきた。
もう、メチャクチャである。
そして、ついに勝成はやらかしてしまう。
ある時、父親の部下といさかいを起こし、怒りにまかせてつい斬り殺してしまったのである。
当然、父・忠重は大激怒。勝成を【奉公構え】としてしまった。
奉公構えとは、「追放」プラス「他家への出仕禁止」という重い処分であり、現代で言えば「破門状」に近い。
「勝成を雇った家は、水野家の敵である」という宣言なので、徳川家康さえ庇うことはできなかった。
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結果、勝成は徳川方を出奔することとなった。
こうして、勝成の流浪人生が始まった。
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まず勝成は豊臣秀吉のもとに行ってみた。
ちょうど四国征伐中であったため、陣に潜りこみ、七百石の扶持を得た。
が、何をしでかしたのか、勝成は秀吉の勘気をこうむり、慌てて逃げ出した。
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旅の途中、体の垢を丸めた物を「妙薬だ」と騙して子供に飲ませるなどしながら(ひどい逸話だが、本当に『名将言行録』に書いてある)、九州へと赴く。
その頃、肥後には佐々成政がいた。
勝成はそこで千石の扶持を得る。
肥後は国人一揆の最中であり、勝成は大暴れ。
当然、数々の武功をあげたが、成政は一揆の責任をとり切腹させられてしまった。そのため、手柄は全て無しになってしまう。
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そこでも一揆などを潰していたが、やがて加藤清正に仕えることとなった。
だが、すぐにそこも辞し、次に立花宗茂、そして黒田孝高(黒田官兵衛)に仕えた。
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どこに行っても千石以上で雇ってもらえたようなので、やはり腕が立ったということだろう。
ところが、黒田孝高の長男・黒田長政の大坂行きの船に随伴している最中、勝成は唐突に姿を消してしまう。
理由は不明。戦ばかりの生活に飽きたとも、大坂で待つ秀吉を恐れたものとも言われている。
行方をくらますこと約六年。
なぜか勝成は、備中の国人・三村親成の食客となった。扶持はわずか十八石だったという。
もっとも、そこでも茶坊主を斬り殺すなどの事件を起こしている。
どこまでいっても、人間はそう簡単に変われぬものらしい。
そんな折、天下人・豊臣秀吉が薨去し、世は騒然とし始める。
勝成は、さっそく徳川家康のもとへと馳せ参じた。
が、いまだ「奉公構え」の最中なので、名乗ることもできず、仕方なく勝手に城の門番などをした。
それでも、やはり目立っていたのだろう。あっさり正体を見破られてしまう。
そこで家康は、強引に水野親子を仲直りさせた。
こうして、勝成の十五年もの放浪生活は終わりを告げたのであった。
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