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【徳川家康】
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三方ヶ原の意地は無駄じゃない
信長が勢いを増す中、他の大名も指をくわえて見ているわけではありません。
信長と対立した足利義昭の要請を受け、ついに元亀3年(1572年)、武田信玄が上洛を開始しました(※と言ってもこのときの武田家もかつての今川氏と同様、徳川領への侵攻であり、京都への上洛ではないとの見方です)。
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信玄率いる二万の軍勢は、甲府から徳川領へと侵攻開始。
家康の敗因を探るまでもなく、数の差は圧倒的でありむしろ勝ち目がまったくない戦いでした。二番目の「神君三大危難」の開幕です。
このときの武田勢ときたら、破竹の勢いとか鎧袖一触とか、そんな言葉がふさわしい進撃ぶりでした。
家康のもとには信長から三千の援軍が到着します。
それでも形成は不利です。家康は本拠の浜松城に籠もり、武田勢の来襲を待ち受けます。
ところが敵は意外な行動に出ます。なんと浜松城を素通りし、三方原台地から浜名湖へと進んだのです。
これは当時のセオリーからすれば異常なことでした。
進軍する先にある城は落とす、あるいは少なくとも攻め手を送り込むのが常道。これはまるで猫が鼠をいたぶるような、あまりにひどい侮辱でした。
この見え透いた侮辱を目の前にして、家康と家臣の意見は対立します。劣勢であるからには見送るべきだという静観論に、家康は反対。
「見え透いた挑発であり、おびき出そうという魂胆はわかっている。しかし、これを見送っては武士として末代までの恥だ!」
家康は敢えて出撃し、敵の背後を突く決意を固めたのでした。
敵は家康の手を全て見通しておりました。徳川勢の進軍ルートを予測し、待ち構えていた武田勢は僅か二時間で相手を打ち負かします。
徳川勢も織田からの援軍も甚大な被害を被り、家康は忠実な家臣たちを身代わりにたてながら、なんとか撤退したのでした。
浜松城まで戻った家康は敢えて城門を開け放つ「空城の計」を用い、それを見た相手はそのまま引き揚げた、とも言われています。ちょっと出来過ぎた話のような気もしますが。
同合戦は【三方ヶ原の戦い】と呼ばれ、武田信玄相手に惨敗をした家康ですが、これは家康のキャリアにとって必ずしもマイナスになったとは思えない部分もあります。
「試合に負けて勝負で勝った」とは言い過ぎかもしれませんが、敢えて不利とわかっていても武士としての名誉に賭けて出撃するというその心理は、同じ武士にとって「心にグッと来る」行動ではないでしょうか。
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後年の狸親父というイメージもありながら、関が原の戦いで家康は、加藤清正ら豊臣系大名も取り込んでいるわけで、人の心を掴む要素があったはずです。
それがこうした武士としてプライドを賭けて困難に立ち向かった態度ではないでしょうか。
さて、徳川勢を蹴散らした武田勢は後が続きません。これまたご存知の通り、土壇場になって信玄が病死してしまったのです。
その死はしばし伏せられたままとなりますが、信玄の死による反織田勢力の後退を見逃す信長ではありません。
まずは天正元年(1573年)、信長は朝倉義景と浅井長政を滅ぼしたのでした。
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勢いに乗る織田・徳川勢は、信玄亡き後の武田勝頼との戦いに挑みます。
天正三年(1575年)、長篠・設楽ヶ原の戦い(いわゆる長篠の戦い)で武田勝頼相手に大勝利。まさに最強のコンビともいえる信長と家康ですが、この先には思いも寄らぬ悲劇が待ち受けていたのでした。
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関ヶ原まで、あと二十五年。
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天正年間はまさに世代交代の時代でした。
天正6年(1578年)、武田信玄と争った上杉謙信が急死。後継者をめぐる【御館の乱】が発生します。
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長篠の戦いでの損害回復で勝頼も苦しい立場であり、武田と上杉がおとなしくなったその最中、信長の目は西へと向けられます。
この時期は、毛利攻めの羽柴秀吉が活躍していた時期。
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一方で家康はあくまで東担当であり、西の秀吉に、東の家康という構図が出来上がります。
徳川はこの頃、防備に専念する穏やかな日々となっておりました。
この比較的穏やかな時期の天正6年(1578年)、家康にとって悲劇的な事件が起こるのです。
家康の嫡男・松平信康の正室は、信長の娘・徳姫でした。
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彼女が父の信長に対し、信康母子を告発する書状をしたためたというのです。この内容が姑である築山殿との不仲程度ならともかく、二人が武田と通牒しているとあったから、信長としては見逃せません。
信長が徳川からの使者である酒井忠次に問い糾したところ、彼は否定しなかったため、信康は切腹、築山殿の死が決まってしまった、という流れです。
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この不可解な悲劇の動機はいろいろな説があり、これだという決定的な証拠はなかなか見いだせていないようです。
ただ、とりあえず、信長が信康の器量を恐れた説は除外してもよいのではないでしょうか。
信長にとって徳川は重要なパートナー。その世継ぎが優れていたのならば、それはむしろ歓迎すべきことでしょう。この説は家康がのちに天下を取るというバイアスに基づいたものではないかと思います。
武田勝頼が送り込んだスパイである大賀弥四郎なる者が、徳川家中に深く入り込み、築山殿と信康を手なずけて武田を利する行動を取るように操った、というトロイの木馬のような説もあります。
あるいは武田信玄・武田義信父子のように、不仲が背景にあるとか。
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いずれにせよ、父が子、夫が妻を死なせなければならなかったのですから、痛恨事には間違いありません。
この事件によって、家康の嫡子は事件の翌年に生まれた秀忠となります。
関ヶ原まで、あと二十一年です。
恐怖の伊賀越え
天正10年(1582年)、信長は満を持して武田領に侵攻を開始。
相次ぐ武田家臣の離反が発生します。
家康は駿河から武田領へ攻め入り、ここでも頼りになるパートナーとして手腕を発揮します。信長は家康の功績に報い、家康は駿河を拝領することになったのでした。
宿敵である武田氏はここで滅び、信長も家康も祝賀ムードであったことでしょう。
信長は功労者の家康を本拠地の安土城に呼び、祝おうという流れになります。
ところがこの時、饗応責任者の明智光秀がよりにもよって腐った魚を用意してしまったらしい、ということが問題になります。
このとき信長は今でいうガチ切れをして光秀を激しく叱って蹴りを入れてしまったらしいのですが、信長の気持ちも、光秀の気持ちもわからなくもありません。
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信長としては、
「今は初夏だし、生ものの魚は腐りやすい。だからこそ、万事ぬかりなくこなす光秀に頼んだわけだろ。それを腐らせるとかありえない失態。しかも長年尽くしてくれた家康相手だぞ。俺の顔に泥を塗りおって!」
光秀としては、
「この生ものが腐りやすい季節に魚から腐った臭いがしたくらいで、蹴りを入れるなんてあまりに横暴だ。家康公は長年のつきあいって言いますけど、私だって長いこと仕えているじゃないですか。この間の甲州攻めでも面罵されましたし」
といったところですね。
家康は場の空気の悪さを感じ取ったと思ったかもしれませんが、まさかこの後、光秀が信長を討つとか思ったわけもありません。
信長の家康への慰労は続きます。
「長年いろいろありがとう。武田も滅びたことだし、一区切りってことで堺見物なんかどう? 茶会も楽しんでゆっくりしていってね」
信長としては安土の腐った魚事件もあることですし、それを補うためにも豪華ツアーを用意するわけです。
堺の接待尽くしで、家康も「いろいろあったけど、信長公と長年コンビ組んできてよかったよな」と思ったんではないでしょうか。
このとき信長の家康への対応を見ていると、ビジネスパートナーとして最高です。気遣いのある人だな、と思えます。
ただし、この「信長プロデュース家康お疲れ様ツアー」は最悪の形で幕切れとなるわけですが……。
信長手配の接待尽くしを楽しんでいた家康の元へ、6月2日に凶報が飛び込んできます。
前日、京都の本能寺で信長が光秀によって討たれたというのです。
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楽しいバカンスが一転、地獄のサバイバルになりました。
三番目の「神君三大危難・神君伊賀越え」の開幕です。
凶報に接して、家康は半ば諦めました。
「もう駄目だ。土民の手にかかって無残に死ぬくらいなら、切腹する」
そんな主君を本多忠勝ら家臣が止めます。
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「伊賀を越えて、帰りましょう」
そう提案したのは服部半蔵正成でした。忍者の代名詞となった「服部半蔵」ですが、服部半蔵正成自身は忍者ではなく、その父が忍者でした。
半蔵正成はこの父の代から家康に仕えていました。
家康は早くから伊賀忍者を活用していたようです。
信長は「天正伊賀の乱」で伊賀忍者に弾圧を加えましたが、家康はむしろこの時彼らを保護下に置いたようです。こうした家康の経歴が伊賀越えの時に生かされたことでしょう。
家康とその家臣たちは、少なくない犠牲を払いながらも険しい道を突破。生き延び、本拠地三河にたどり着きます。
家康は信長の仇打ちのために光秀討伐に向かうものの、羽柴秀吉が勝利をおさめたと知ると引き返します。
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そんな彼の前に、主を失った武田遺領が横たわっていました。
関ヶ原まで、あと十八年です。
天正壬午の乱
旧武田は恐ろしくカオスな状態になっておりました。
主君を失った武田家臣や国衆が一揆を起こし、領内にとどまる織田系武将に牙を剥いていたのです。
この土地を越後の上杉、相模の北条、そして三河の徳川が見逃すわけもありません。
甲斐・信濃・上野は三者が火花を散らす場となったのです。ただし、上杉景勝は新発田重家の反乱が起こっていたこともあり、積極介入しにくい状況でした。
この混乱の中、旧武田家臣である真田昌幸が活躍します。
状況を見て、つく相手を替える昌幸は、この【天正壬午の乱】の鍵を握る存在でした。
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家康ははじめ北条相手に苦戦をするのですが、当初は北条方だった昌幸を味方につけたあたりから、状況が好転します。
徳川と北条は同盟を結び、ひとまず乱は終わるかに見えたのですが、予想外の事態が起こりました。
この和睦交渉で、北条氏政は上野国沼田領を要求。家康は昌幸に引き渡しを求めたのです。
「だが断る。沼田領は徳川から与えられた領土ではない」
昌幸としてはせっかく味方したのに沼田を求めるとは、家康に恩を仇で返されたようで腹が立ったとは思います。
言うなれば昌幸に筋がある――とはいえ、家康としてもまさか断られるとは思ってもいなかったでしょう。
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天正13年(1585年)、家康は真田討伐のために家臣を出兵、第一次上田合戦が起こります。
家康としては生意気な国衆をひねり潰すくらいの気持ちだったかもしれません。国衆と大名ではまず戦いにならないのが普通です。
ところが真田は普通ではない。
家康は圧倒的少数の相手に対して、手痛い敗北を被ったのでした。
しかも昌幸が徳川方を撃退した上田城は、昌幸が家康配下であったときに、家康の許可を得て建てたものです。まさに屈辱的な敗北でした。
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このあとも真田一族は、家康の人生の転換点において、あまりありがたくない形で顔を出します。
それにしてもこの天正壬午の乱というのは、重大な戦いであり、錚々たる大名が絡んでいるにも関わらず、注目を集めにくいような気がします。
本能寺で信長が倒れると、注目は華々しく仇打ちを遂げる秀吉に集まってしまうということもあるでしょう。
戦いの最後で真田に大敗し、味噌を付けてしまったため、というのもあるのでしょう。
しかしこの乱で家康は、しっかりと自分なりの天下餅をこねているのです。
思うように介入できなかった上杉、どうにも精彩を欠いているように思える北条に対して、家康は確実に旧武田領を獲得し、新たなる天下人たる秀吉も無視できない存在になったのです。
小牧長久手の戦い
天正10年(1582年)、信長が倒れ、家康が旧武田領で激しい死闘を繰り広げている頃。
畿内は空白状態になりました。
信長の後継者たちは狼狽し、光秀を討とうにも、まるで動きが止まったような状況です。
そんな中、毛利攻めに赴いていた秀吉は、敵と素早い講和を結ぶと、電撃的な中国大返しで駆け戻り、山崎の戦いで光秀を打ち破ったのでした。
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信長の死から一月ほどのち。
清洲会議において信長と共に討ち死にした嫡男・織田信忠の遺児・三法師を織田家後継者とし、その叔父である織田信孝と織田信雄を後見とすることが決定されます。
しかしこの決定後も、信孝と信雄の確執は続きます。
信孝は柴田勝家、信雄は秀吉と結び、信長の家臣団をも巻き込む争いに発展。天正11年(1583年)、【賤ヶ岳の戦い】となり、勝家が敗北、自刃します。
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同様に信孝も切腹へと追い込まれました。
勝った側の信雄ではありますが、この頃から秀吉との仲が悪化。信雄は家康に接近します。
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記述が前後しますが、この要請は第一次上田合戦の前です。
家康と秀吉はついに天正12年(1584年)、【小牧・長久手の戦い】で対決することになります。
この戦いは、家康にとって「勝負に勝って試合に負けた」と言えるのではないでしょうか。
数で劣る家康・信雄連合軍は最終的に講和を結び、家康は次男・於義丸(のちの秀康)を人質として秀吉に送っています。
とはいえ、長久手方面において徳川勢は敵を圧倒しました。徳川四天王・井伊直政や家康の側近・安藤直次らの活躍によって森長可、池田恒興を討ち取り、羽柴秀次が率いていた本隊を壊滅状態に追い込んだのです。
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森長可の首は、戦場からさほど離れていない菩提寺まで運ばれる途中、敵の目をかいくぐって進むことを断念して埋葬されたと伝わります。
長可ほどの名だたる武将がそのような目にあわねばならなかったほど、徳川勢は強く、綿密な警戒をしていたのでしょう。
講和後、家康と秀吉の間では戦いには至らないものの、和解もしない、冷戦状態が続くことになります。
そんな中、衝撃的な事件が起こります。
天正13年(1585年)、長年仕えてきた石川数正が突如秀吉の元へと出奔してしまったのです。
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数正は、駿府での人質時代から苦楽をともにしてきた家臣です。
しかも彼は軍事機密情報を握っていたわけですから、それがすべて敵の手の内に渡るということです。
彼の出奔は、これだけ重要な事件であるにも関わらず、動機はハッキリしません。
秀吉との対決を唱える強硬派に対して、数正は和平派。秀吉との交渉に疲れてきたのか、向こうの方がよいのではと思えてきたのでしょうか。
いずれにせよこの出奔によって家康は軍制改革をしなければならなくなります。
このとき力になったのが、旧武田家臣たちでした。
天正14年(1586年)になると、秀吉は懐柔策を取って家康に接近してきます。
実妹・朝日姫を家康に正室として迎えさせ、さらに人質として生母・大政所をも送ってきたのです。
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こうなると家康も、流石に秀吉からの上洛要請を断り切れなくなります。
仕方なく上洛したような形かと思われますが、家康にとってはなかなか美味しい話でもありました。
この時期に朝廷から「三位中将」に叙任されているのです。家康にとってはかなり嬉しい叙任ではありますが、「従一位関白」である秀吉と同席したらば下位に置かれるということでもあります。
それでも、損と得を天秤にかければ、官位(※官位とは官職と位階の組み合わせを意味します)には大きな魅力がありました。
秀吉としては手強い家康をついに屈服させたのです。
官位授与の効果は抜群で、これに抵抗できる大名はいません。
この時期、家康は藤原から源氏に改姓しています。家康はもともと源氏にしたいと願っていましたが、その動機は将来的に「征夷大将軍」を希望していたからでした。
のちの歴史を考えると家康はこの頃から将軍としての天下を狙い、着々と動いているようにも思えますが、公家の頂点を極めた関白秀吉からすれば、せいぜい「征夷大将軍=東国武士の抑え」と解釈できるのではないでしょうか。
事実、家康は今後東国武士の抑え、代表のような役割を果たします。
関ヶ原まで、あと十二年です。
※1……徳川四天王(本多忠勝・榊原康政・井伊直政・酒井忠次の4名)
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