「Ninja」という単語が諸外国へ広がったのは1964年の東京五輪がキッカケだったのではないか?
そんな興味深い記事が以前、本サイトで掲載されておりました。
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Ninja(忍者)が世界に普及したキッカケは1964年東京五輪だった?
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外国人に限らず、Ninja=忍者は日本でも人気コンテンツの一つ。
大河ドラマ『どうする家康』の第5回放送で山田孝之さんが演じた服部半蔵も大きな話題となりました。
実は全部で十数代も存在した“服部半蔵”の中で、最も有名な半蔵が、二代目であるこの服部正成(まさなり)。
忍者というと冷酷・すばしっこい等々のイメージが強いですが、実際のところは【侍】らしい仕事をよくやっています。
中でも有名なものは
と
「徳川家康の伊賀越え」
に関するものですね。
一体どういうことか?
服部半蔵正成の生涯と共に振り返ってみましょう。
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信康に薦めた側室が旧武田家臣の娘だった
二代目服部半蔵こと服部正成は天文11年(1542年)生まれ。
父は初代の服部保長であり、正成はその五男でした。
家康と同年であり、若い頃から徳川軍の数々の戦に従軍。
伊賀忍びの者60~70名を引き連れて合戦に参加していたとする記録もあり、宇土城攻めのときには城内へ忍び入って戦果を挙げています。
最終的に「伊賀者150名」を持つことを許されるのですが、家康と同様、正成も当初は順風満帆だったとは言えません。
特に知られているのが松平信康事件でのエピソードでしょう。
よく知られるように、織田家と徳川家の間には【清洲同盟】という強固な結びつきがありました。
家康の長男・松平信康のもとには、信長の長女・徳姫が嫁入りするほど。
しかし、この婚姻が不幸の種となります。
松平信康事件の真相は、未だに不明とされておりますが、一つのキッカケとして妻の徳姫が、その父・信長に宛てた手紙が指摘されます。
では、どんな内容の手紙だったのか?
というと【松平信康とその実母・築山殿に関する12か条の批判】であり、以下、全部を読まずとも大丈夫ですので、③と⑪に注目してください。
①築山殿は、私と信康様との仲を裂こうとする。
②築山殿は、女子しか生んでない私の事を「役立たず」と言う。
③築山殿は、男子は妾に生ませればよいと、武田関係者の妾を用意した。
④築山殿は、浮気相手の減敬を通して武田と繋がっている。
⑤武田勝頼は、信康を味方にし、織田・徳川滅亡後は信康を領主とし、築山殿は武田の武将・小山田と結婚させると言っている。
⑥信康は、気が荒く、私に情報を提供してくれた侍女を、私の目の前で「このおしゃべり女め」と言って殺し、さらにその口を裂いた。
⑦信康は、踊りが好きで、踊りが下手な者を射殺した。
⑧信康は、鷹狩で獲物がなかったのを出逢った僧のせいにし、その僧の首と馬を縄で繋ぎ、馬を走らせて殺した。
⑨武田勝頼は、信康を味方にしたいと言っているので油断しないように。
⑩築山殿は、金使いが荒く、贅沢三昧な暮らしをしている。
⑪築山殿は、武田勝頼に「(今川義元を殺した)織田信長と(両親の自害の原因を作り、さらに今川家を滅亡させた)徳川家康を殺して欲しい」と言っている。
⑫近頃、岡崎城下で踊りが流行して、風紀が乱れているのは、城主の信康が愚公だからだ。
※「徳姫12ヶ条の弾劾文」(『参河志』)※2
③と⑪を繋げると、つまりは松平信康が武田家になびいて、徳川家と織田家に災いをなす(殺害を要請している)――と読めるわけです。
詳細は以下の記事に譲りますが、
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家康の長男・松平信康はなぜ自害へ追い込まれた?謎多き諸説を考察
続きを見る
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家康の正室・築山殿(瀬名姫)は重たい女?最後の手紙と殺害理由
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実際、なかなか男児が生まれない状況を心配した松平信康の母・築山殿が自分の侍女を息子に引き合わせておりました。
その侍女が旧武田家臣の娘だったんですね。
敵の女を旦那に近づけられるなんて、徳姫としては正室のプライドを傷つけられ、姑への不信感はMAX。
そりゃあ怒りたくもなる。
ってもんで、手紙を読んだ信長は、松平信康と築山殿の処刑を家康に命じました。
信長vs家康vs家康長男にはさまれて
いくら格上の同盟相手とはいえ、嫡男の処分とは穏やかではありません。
当然、徳川家は大混乱に陥りました。
「織田信忠(信長の嫡男)様より信康様のほうが出来がいいから信長は僻んでいるんだ!」
「娘の言い分だけ聞くとか何様だよ!」
「同盟破棄して一戦しましょう!」
「でもウチだけじゃ勝てないだろ? 信玄のとき(三方が原の戦い)みたいになるかもよ?」
などなど、さまざまな意見が飛び交い、迷った家康は信長との同盟存続を選び、息子と正妻の殺害を決意するのでした。
実際は、家中が松平信康派と徳川家康派に分裂する親子の権力争いだった――そんな見方もあり、なかなか有力な指摘にも見えますが、いずれにせよ家康が処刑を決意したことには変わりません。
切腹を命じられた信康。
その介錯(とどめ)を命じられたのが二代目・服部半蔵こと服部正成だったのです。
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