大河ドラマ『どうする家康』でリリー・フランキーさんが演じる久松長家。
松嶋菜々子さん演じる家康の生母・於大の方と再婚し、徳川の傘下に加わる――ドラマでは弱々しい戦国武将ですが、だからといって「その表現はあんまりでは?」というのが番組側がつけたキャッチコピーです。
適当こそわが人生
家康の義父
まるで、ヘラヘラ生きていたら、運良く天下人の義父になれちゃった……。
そんなニュアンスすら感じさせる文言ですが、何をもってして久松長家が適当だと思われてしまったのか?
いったいどんな武将だったのか?
久松長家の生涯を振り返ってみましょう。
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久松長家 水野氏の娘・於大の夫となる
久松氏の始まりは応永20年(1413年)――。
尾張国守護・斯波氏の家臣である久松道定が、知多郡阿古居に所領を与えられたことでした。
その後、斯波氏は衰退してゆき、代わって台頭してきたのが守護代織田氏。
久松氏は、そうした情勢の変化により、動乱に翻弄されていくことになりますが、そんな最中の大永6年(1526年)に生まれたのが久松長家です。
※本稿ではドラマの設定に合わせて改名後も「長家」と記載
長家は織田信秀と同盟を結ぶと、天文17年(1547年)、後妻として水野信元の妹である於大を迎えました。
ご存知、徳川家康の実母ですね。
享禄元年(1528年) 生まれの彼女は、長家の2歳下であり、尾張国知多郡阿久比の坂部城に住むこととなりました。
地図をご覧のとおり、岡崎城の西に位置し、水野の刈谷城からもほど近い立地となります。
そこで彼女は生別した我が子・竹千代のもとへ、折々手紙を送り続けました。
永禄3年(1560年)には、坂部城で母と子は束の間の再会を果たしています。この感動的な場面の背後には、久松長家の配慮もあったことでしょう。
久松氏のような国衆は、さまざまな勢力と連携しつつ生き残りを賭けるしかありません。
当時、松平元康であった家康と生母の再会を演出して、松平とも接近する好機と考えるのは自然なことでした。
※以下は徳川家康ならびに於大の方の考察記事となります
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今川から自立する義理の息子と協力
永禄3年(1560年)の【桶狭間の戦い】で久松長家は、松平元康と連携していました。
この戦いで今川義元が討たれ、今川家に翳りが見えると、長家は元康に与することを決断。
今川家と対峙した元康が永禄5年(1562年)に三河を攻め、鵜殿長照を滅ぼすと、その居城であった上ノ郷城を久松長家に任せました。
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そして長家の子である康元・勝俊・定勝に松平姓を名乗らせたのでした。
かくして家康の異母弟たちは松平氏に組み込まれ、一族は久松松平氏と称されます。
三河支配を盤石なものとするため、元康は女系の血統を活用したのです。
義理の子に巻き込まれ 名も変わる
久松長家とその子たちの命運は、後妻の子によって左右されてゆきます。
実は名前すらそう。
今川家から独立する上で、元康は家康に改名しましたが、さて、この「家」の字はどこから来たのか?
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