松平忠輝

松平忠輝(左)と徳川家康/wikipediaより引用

徳川家

家康の六男・松平忠輝はなぜ父に嫌われたか?92年の不憫な生涯

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運の悪いことに、忠輝の家老だった大久保長安という人物がポカをやらかしてしまっていたため、主人である忠輝や舅の政宗両方が疑われていたのもこの時期でした。

そして忠輝は、自ら決定的なミスを犯してしまいます。

大坂夏の陣の際、連絡の不備が原因で秀忠の家臣と押し問答になった末、癇癪を起こしてその家臣を手打ちにしてしまったのです。

結局、肝心の合戦にも出遅れてしまって戦うことができず、父からも兄からもお咎めを食らうことになりました。

言い逃れの達人・政宗も、このコンボには良い知恵が浮かばなかったようです。後述の理由もデカいかもしれませんが。

 

父・家康の死に目にも会えず改易

そうこうしているうちに、健康の塊だった家康が寄る年波に勝てなくなり、危篤に陥りました。

さすがに父の死に目には会いたかったのでしょう。

松平忠輝も後悔し始め、母や家康の側室、はては南光坊天海にまで取り成しを頼みましたが、残念ながら失敗。

結局、面会することは叶わず、忠輝は父の死を伝え聞くだけに終わりました。

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これだけ嫌われても「会いたい」と思う情があるあたり、やっぱり乱行の噂には疑問符をつけざるをえません。

さすがの家康も最後の最後に情がわいたのか、忠輝への形見として「乃可勢(のかぜ)」という笛を残しています。

「一節切(ひとよぎり)」という、竹の節が一つしかないタイプの短い笛で、陣中にも携行できるものです。

家康の真意は不明ながら、

「これからは風流を大切にして穏やかに生き、兄弟と波風を立てぬように」

というような願いがこもっていたのでしょうか。

直接忠輝に送らず、生母の茶阿の局を通して渡されたそうですので、彼女が何か口添えしたかもしれませんね。

しかし家康の死後、秀忠は忠輝を正式に改易とし、流罪に処しました。

やはり”将軍直参を無礼討ちした”ことが響いていたようですが、もう一つ罪状になりそうなものがあります。

「政宗が遣欧使節を送る裏でクーデターを企んでいたかもしれない」という話があります。

この裏に忠輝が関わっていたか、もしくは名前だけが関与させられていた可能性があるのです。

当時、江戸にいたリチャード・コックスというイギリス人商人の日記にも

「今の将軍を倒して、政宗と忠輝が新しく王様になる計画があるらしい」

という記述が出てきています。

政宗の野心は当時でも有名でしたし、家康や秀忠がどこかからこれに近い情報を得ていたとしたら……そりゃ、幕府安寧のためには忠輝をどげんかせんといかんわけですよね。

やっと豊臣家が片付いたのに、この上政宗と一戦やらかすなんて選択肢はなかったでしょうから。

新旧二人の将軍の間で「できるだけ穏便に済ませるためには、忠輝の改易が一番」という結論が出ていたのかもしれません。

あるいは秀忠が異母弟へのせめてもの情けとして「土地と兵を取り上げれば、命だけは助けてやれる」と考えたのでしょうか。

さて、話を忠輝本人に戻しましょう。

 

92歳まで長生き 昭和59年にようやく許される

松平忠輝はまず元和二年(1616年)に伊勢へ送られ、元和四年(1618年)に飛騨高山城主・金森重頼預かりとなりました。

その後、寛永三年(1626年)に信濃諏訪城主・諏訪頼水に預かり先が変わり、ここで生涯を終えています。

流罪になると「いつ死ぬかわからん」というのが当時の常識でしたが、忠輝は元の身分が高いですし、預かり先もきちんとしたお城でしたので、長生きしました。

具体的な時期は不明ながら、貞松院(諏訪市)の住職とは親しくしていたとのことなので、そのあたりから人格が丸くなっていったのかもしれません。

亡くなったのはなんと天和三年(1683年)、92歳のときでした。

将軍でいうと五代・徳川綱吉の時代です。

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余談ですが、綱吉は忠輝が葬られた貞松院に供養料として30石寄進しています。

忠輝と綱吉は直接の血縁ではありませんが、なにか思うところがあったのでしょうか。

流されたのが25歳のときですから、人生の約4分の3は流罪生活だったということになります。この忍耐強さは、家康に似たのかもしれませんね。

赦されないまま亡くなったので、死後も罪人扱いのままだったのですが……。

没後300年経った昭和五十九年(1984年)にやっと現在の徳川宗家から赦免されました。

キッカケは、葬られたお寺である諏訪・貞松院のご住職が

「忠輝公が”赦免してもらえないか”と夢に出てきた」

からだったそうで。

そりゃ大部分が本人の知らないところで着せられた罪で、こんなに長く流罪になってたら化けて出たくもなろうというものです。

それでも兄や弟たち、歴代の将軍を祟らなかったあたり、「若気の至り」が長引いただけで、忠輝も本当は優しさを持った人だったんじゃないでしょうか。

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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
藤井讓治『人物叢書 徳川家康』(→amazon
貞松院(→link

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