徳川家康像(右)と八幡岬公園(勝浦城跡)にあるお万の方(養珠院)像/wikipediaより引用

徳川家

17歳で54歳の家康に嫁いだお万の方(養珠院)死装束の大胆エピソード

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日蓮宗の日遠がうぜぇ! 黙らせたるわい

お万の方は、義父・氏広と同じく熱心な日蓮宗徒であり、日遠(にちおん)という僧に帰依していました。

しかし家康は浄土宗です。

しかもこの日遠という僧侶が、言論的な意味で好戦的な人で、他宗派の僧を言い負かしては改宗させるということを繰り返していました。

一向一揆などで宗教と暴力が結びつくのにはイヤな思い出がある家康が、日遠を好ましく思うはずはありません。

『コイツをなんとか黙らせよう!』

家康は少々強引な手段に出ます。

慶長十三年(1608年)、日蓮宗が浄土宗の僧侶に宗論(仏教の教義に関する議論)を申し込んだとき、日蓮宗側の論客を密かに襲わせたのです。武士相手でもないのに物理的解決はいかがなものか……。

このため日蓮宗側の出席者・日経が大怪我をし、まともな問答ができませんでした。

浄土宗側の勝利です。

家康は「日蓮宗の一部の教義は無意味なもの」と認めるよう、日遠に誓紙を出せと迫りました。

しかし日遠も信仰に生きる僧侶ですから、そう簡単には誓紙を出しません。

というか暴力に訴えた家康に激怒しました。そりゃそうだ。

日遠は対抗手段として法主を務めていた久遠寺(山梨県南巨摩郡)を辞し、新たな宗論を上申しました。

 

死装束を縫い始めたお万の方にビックリ

命令に従わない日遠に対して、家康はブチキレます。

「捕えて、安倍川(静岡県静岡市)の河原で磔にせよ!」とまで命じる有様。最初に工作(物理)したのは自分であり、さすがに酷い言いようですね。

これを知ったお万の方は、恩師の危機に黙っていられませんでした。

早速、家康に対して日遠の助命を嘆願しますが、家康は聞き入れようとしません。

すると彼女は「師の日遠が死ぬならば自分も死ぬ」と言い出し、なんと日遠用と自分用に、二枚の死装束を縫い始めたというのです。

なんだか豊臣秀吉と対面した伊達政宗の話みたいですが、お万の方の場合は“芝居っ気”はなさそうですよね。

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お気に入りかつ男子を二人も産んだ大手柄を持つ側室の覚悟に、さすがの家康もびっくり仰天。あわてて日遠を許します。

大坂の役よりも前の話ですし、後陽成天皇の耳にまで入って「無妙法蓮華経」のご宸翰(天皇の直筆)がお万の方に贈られたといいますから、もしかすると豊臣秀頼淀殿もこの話を聞いたかもしれません。

その場合、淀殿が「家康は女子供に甘い」と勘違いした……なんてこともありえそうです。

関ヶ原の戦いのときも、家康は「女子供は不問」という理由で、秀頼と淀殿を処罰しませんでしたし。

まぁ、関ヶ原については“豊臣家の内部”という名目もありましたが。

何がどこに影響するか、最終的にどうなるか、先のことはわからないものですよね。

 

平成に入ってから石室に彼女の遺髪が

お万の方はその後は静かに暮らしていたようですが、もう一つのエピソードに注目してみます。

彼女は慶安二年(1649年)、家康の三十三回忌に、息子・徳川頼宣の領内でお堂を作り、これが現在の海禅院(和歌山県和歌山市)の始まりとなっています。

頼宣は後に、お万の方が作ったお堂を建て直し、多宝塔という建物にしています。

そして平成十六年(2004年)、この下にある石室から、お万の方の遺髪が見つかったのだそうです。

頼宣が紀州藩主になってからは、お万の方に会うことも難しかったでしょうし、生前に形見として髪をもらっていたのかもしれませんね。

亡くなった後に菩提を弔うのであれば、分骨にするでしょうし。

「頼宣が両親を同じ寺で弔いたかった」のかもしれないと考えると、母への想いが感じられ……おっと涙腺が。

前田利常などもそうですが、剛毅な人の情に厚いエピソードってじんわりきます。

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長月 七紀・記

【参考】
歴史読本編集部『戦国を生きた女101人 (新人物文庫)』(→amazon
養珠院/wikipedia

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