服部半蔵正成

服部半蔵正成/wikipediaより引用

徳川家

服部半蔵正成の生涯|忍者ではなく武士だった 神君伊賀越え成功の立役者

2024/11/13

毎年11月14日は、服部半蔵正成が開いた西念寺で「半蔵忌」の法要が営まれる日。

服部半蔵といえば?

忍者でしょ!

と答えたくなるほど伊賀忍者のイメージが浸透していますが、実際、家康のもとでは武士の職にあって徳川を支えてきました。

結果、後に「半蔵門駅」の名にもなる屋敷を江戸城の裏手に与えられるという出世を果たしています。

では一体、服部半蔵正成にはどのような活躍があったのか?

その生涯を振り返ってみましょう。

なお、徳川家にはもう一人の“半蔵”こと渡辺守綱もいますので、以降は「正成」表記で進めさせていただきます。

※以下は渡辺守綱の生涯まとめ記事となります

渡辺守綱
渡辺守綱の生涯|徳川の鬼半蔵と呼ばれた猛将 関ヶ原後は徳川義直を支える

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初陣と三河一向一揆

服部氏は、服部半蔵正成の父である保長の代から松平氏に仕え始めました。

保長は家康の祖父である松平清康、ならびに父の松平広忠、そして徳川家康に仕えています。

家康の祖父である松平清康/wikipediaより引用

正成本人の動向については、弘治三年(1557年)の初陣までハッキリしていません。

兄たちの援助を受けて暮らしていたことと、小さい頃から剛力だったことが伝わっていますので、腕っぷしの立つ少年だったのは間違いなさそうです。

では正成の初陣とはいかなるものだったのか?

弘治三年(1557年)に正成は、今川家傘下・徳川軍の一員として三河宇土城(上ノ郷城)を攻めました。

このときの働きが家康の目に留まり、盃と槍を拝領したと言われています。

次に活躍が見えるのは永禄三年(1560年)、あの【桶狭間の戦い】です。

同戦で今川義元が敗死すると、家康は今川家から独立。

正成は、旗本馬廻衆の一人として仕えるようになり、もう一人の”半蔵”こと渡辺守綱と同輩でした。

正成は一向宗徒でしたが、永禄六年(1563年)【三河一向一揆】では家康について戦っています。

昨今は、単なる一向一揆ではなく、今川家を背後に控えた三河国衆たちと家康の対立という指摘があり、渡辺守綱も敵方になっています。

最終的には、家康が敵対した武士たちの多くを不問に付したため、一揆は収束へ向かい、多くの者たちが家康のもとへ帰陣しました。

元亀元年(1570年)、織田徳川連合軍vs浅井朝倉連合軍の【姉川の戦い】では、知略を用いた活躍が伝わっています。

浅井長政/wikipediaより引用

このとき正成は、退却中だった浅井軍の一団に遭遇してしまいながら、

「自分も浅井方なので、一緒に退却しよう」

と偽って、しばらく行動をともにしたというのです。

バレたらその場で討たれてもおかしくない作戦ですが、それだけ正成の肝が太かったか、あるいは弁がたったか。

道中で弟の半助と鉢合わせしてしまい、声をかけられたところで即座に立場を切り替え、浅井軍を倒して半助に首を譲ったとも。

謎の多い姉川の戦いですが、正成の臨機応変ぶりと、戦闘能力の高さは認められていたからこその話かもしれません。

 


三方ヶ原の戦い

戦の話が続きます。

武田信玄を相手にした家康がピンチに陥ったことで知られる元亀六年(1572年)【三方ヶ原の戦い】。

服部半蔵正成は先手の大須賀康高隊に配属され、一番槍を上げました。

『どうする家康』では登場しなかった大須賀康高ですが、徳川二十八神将の一人に数えられる武将です。

大須賀康高/wikipediaより引用

ご存知のように、三方ヶ原の戦いで徳川勢は大惨敗。

正成は、家康を守りながら戦い、顔と膝を負傷しながらも、主君を討とうと追いついた武田軍と格闘戦を演じたといいます。やはり個人の戦闘力は高かったのでしょう。

戦場から敗走し、浜松城に入った後は、味方を鼓舞するため再び城を出て一騎打ちをし、首を上げて戻ってきたなんて話もありますね。

「鬼半蔵」という異名がいつ頃つけられたのか不明ながら、こうした戦績が事実であれば「さもありなん」と言ったところでしょうか。

むろん家康には働きを高く評価され、褒美として平安城長吉の槍と無銘の槍、さらには伊賀衆150人をあずけられたとされます。

平安城長吉の槍とは、そのまんま平安城長吉という刀匠が作った槍で、村正の師ともされる人物です。

村正というと、家康や徳川にとっては呪われた刀――なんて伝説が知られますが、実際は偶然が重なった話で呪いも何もないというのが正解かなという印象です。

徳川家と槍と言えば本多忠勝の蜻蛉切がよく知られ、いずれも以下の記事にて詳細がございますので、よろしければ後ほどご覧ください。

妖刀村正の伝説
家康を傷つけ徳川家を呪ったという「妖刀村正」なぜそんな伝説が生まれたのか

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次に、なぜかあまり注目されない正成の妻についても見て参りましょう。

 

長坂血鑓九郎信政の娘を正室に迎え

天正三年(1575年)、服部半蔵正成は長坂信政の娘を正室に迎えました。

夫婦間に目立ったエピソードは残されていない代わりに、舅となった信政の異名が凄い。

「血鑓九郎」という物騒な異名が付けられているのです。

信政もまた徳川家臣であり、槍働きが凄まじいことで知られ、「常に槍の穂先が敵の血で濡れていた」ということからきています。

結婚後、程なくして長男が生まれ、その後も複数の子に恵まれているので、夫婦仲は悪くなかったのでしょう。

その後の正成は、高天神城を巡る戦いへ向かい、このときも大須賀康高の隊へ配属されています。

高天神城

難攻不落の堅城として知られる高天神城図/photo by お城野郎!

大須賀隊はかなり個性豊かなメンバーが顔を揃えていました。

例えば前述の渡辺守綱や、鉄砲の名手・鳥居金五郎など。

康高は高天神城の攻防で成果を挙げていた人として知られますので、癖のありそうな武将たちを束ねるのが上手だったのかもしれません。

正成もまた着実に実績を積み上げ、そのせいか、天正七年(1579年)に辛い役目を背負わされます。

徳川家に関わる話で避けては通れない【信康切腹事件】です。

家康の長男・松平信康が自害に追い込まれ、実母の築山殿(瀬名)も討たれたとして知られる一大事件です。

大河ドラマ『どうする家康』では、瀬名の東国同盟構想が前面に出てしまい、いささかわかりにくくなってしまったので、改めて同事件を振り返ってみましょう。

 

信康切腹事件

織田信長と徳川家康の間には【清洲同盟】という強固な結びつきがありました。

家康の長男・松平信康のもとには、信長の娘である徳姫が正室に迎えられるほどでしたが、事件のキッカケはそこから始まります。

信康と徳姫が男児に恵まれず、跡継ぎについて懸念を抱いた築山殿が徳姫と不仲になり、父親の信長へ手紙が送られたのです。

織田信長/wikipediaより引用

手紙の内容は、夫である信康や姑である築山殿の不審な点を12個も書き連ねた訴状。

しかも「武田に内通している」という、織田や徳川にとっては無視できない非常事態まで記されていました。

むろん信長は大激怒。

家康に対し、信康と築山殿の処分を求めたとされますが、近年では家康派と信康派で分裂してしまった徳川家臣団の内紛という見方もあり、依然としてハッキリした結論は出ていない状況です。

ただし、信康が切腹に追い込まれ、築山殿が討たれたのは間違いなく、この信康の介錯役を命じられたのが服部半蔵正成でした。

松平信康/wikipediaより引用

当初は渋川四郎右衛門という人物が介錯役でした。

しかし彼は譜代の家臣だったため「三代に渡って仕えてきた家の主に刃は向けられぬ」と言って出奔。

正成に白羽の矢が回ってきたわけですが、正成もまた父の代から仕えている家臣です。

主君の息子に刃を振るうことができず、最終的に天方通経(あまかたみちつね)という人が介錯を行いました。

事の経緯を聞いた家康は「戦場で鬼と言われた正成も、主筋を手にかけることはできないか」と納得したとか。

信康が自刃するまでの経緯や、実際に介錯した人物についても諸説あり、全てが事実とは言い切れません。

例によって「当時の世相や家中の人物評が出た話」として考えると、この時期までに以下のような正成の評価が定着していたのではないでしょうか。

・「鬼」と呼ばれるほど凄まじい戦功を上げていた

・嫡子の介錯を頼まれるほど家康に信頼されていた

・しかし非情な人間ではなかった

なお、松平信康と築山殿については、それぞれの考察記事がありますので、興味を持たれた方はぜひ。

松平信康
松平信康の生涯|なぜ家康の長男は自害に追い込まれたのか?諸説を考察

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築山殿
築山殿の生涯|息子の信康と共に殺された家康の正室 夫には重たい女だった?

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安土城での信長接待に同行

前項でも触れた清洲同盟は「信長が死ぬまで続いた同盟」として知られています。

しかし、全く問題がなかったわけではありません。

信康切腹事件はその代表格で、実はその後も両家のトラブルがあり、服部半蔵正成もそのひとつに深く関わっています。

天正八年(1580年)、織田家からの客将と徳川家臣の間で諍いがあり、正成も巻き込まれてしまったのです。

双方に死者が出てしまい、家康としても処分せざるを得ない状況。

しかし何を思ったのか、正成は逃げようとしません。

業を煮やした家康は、正成を無理やり妻子と一緒に逃してやり、別人の首を偽って織田方に提出し、なんとか事を収めています。

その後ほとぼりが冷めた頃に戻ってきたと考えられますが、詳細は不明。

なんとも不可解な話ながら、信長からの追求はなく、双方にとっても無益な争いであったため、穏便に片付けられたのでしょう。

その後も織田・徳川の関係は続き、天正10年(1582年)の甲州征伐でも共闘しています。

武田家は、織田・徳川の命運を左右するほど強大な敵でしたので、武田勝頼を討ち取ったときは大きな節目と考えられたのでしょう。

武田勝頼/wikipediaより引用

信長も人心地ついたのか、家康による接待の御礼も兼ねて、安土城での歓待に招待しました。

このとき宴席で出された料理は、まさにフルコースといった様相。

以下の記事でそのときの御膳が再現されていますが、

織田信長(左)と徳川家康の肖像画
信長御膳の豪華な中身|信長が安土城で家康に振る舞った究極のグルメとは?

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当時は貴重な甘いお菓子も出されており、信長の気前の良さがうかがえます。

実はこのとき、正成がお供の一人として同行していました。

ですので、この二年間のどこかで徳川家に帰参していたと考えられますが、めでたい席でも内心は穏やかではなかったかもしれませんね。

しかしその直後、そんな正成の緊張とは比にならない、大事件が勃発します。

【本能寺の変】です。

 

神君伊賀越え

安土城を訪問した後、家康一行は信長の勧めで上方見物をしていました。

本能寺の変を知ったのは、滞在していた堺を出発した直後のこと。

『真書太閤記 本能寺焼討之図』(渡辺延一作)/wikipediaより引用

茶屋四郎次郎清延が夜を日に継いで「光秀謀反」「信長・信忠横死」を知らせてくれたものの、このとき家康一行はたったの数十名しかいません。

光秀の追手にかかれば、ひとたまりもない。

悲観して腹を切ろうとする家康を、茶屋四郎次郎や家臣たちは必死に止めました。

そして京都には入らず、伊賀の山中を通って浜松へ帰ろうという計画が立ちます。

ここで、正成の土地勘が活かされました。

現代でも伊賀周辺は緑豊かな山林であり、440年前ともなればなおさら。当時は在地の豪族や山賊も点在しており、獣道のほうが安全なのではないかというような苦境です。

正成が道案内をし、茶屋四郎次郎が金銭で買収するなどして、家康一行はなんとか伊勢の港までたどり着き、そこからは船で三河へ渡って、難を逃れることができました。

いわゆる【神君伊賀越え】と呼ばれるもので、フィクションでも定番の人気場面ですね。

このとき、家康の帰還に貢献した人々は、後年になって取り立てられたり、特権を与えられたりしています。

正成の交渉によって協力した伊賀・甲賀の土豪たちもその一例でした。

ある意味、就職の斡旋をしたような形ですね。

なお、他にも別行動していた穴山信君が道中で非業の死を遂げたり、神君伊賀越えにはさまざまなドラマがあり、よろしければ関連記事からご参照ください。

 


家康の関東入封と共に8千石を賜る

神君伊賀越えの後、服部半蔵正成には”御先手頭”という役目が与えられました。

正成が忍者ではなく、立派な武士であることの証左とも言えるでしょうか。

その一例として本能寺の変後に旧武田の領地を巡って激しく争った【天正壬午の乱】では、伊賀衆を率いて勝山城などを守備しています。

青田刈りなどの後方作戦から、大雨に乗じた砦攻めなど、縦横無尽に活躍。

このとき伊賀者を忍び込ませて情報を集めた、ともいわれています。忍者のイメージが強くついてしまうのも致し方ない話ですね。

実際、その後も正成は伊賀衆を率いて行動しています。

城の守備についたこともあれば、天正十二年(1584年)【小牧・長久手の戦い】では伊勢松ヶ島城や蟹江城の奪還に加わり、鉄砲を用いて活躍したこともありました。

忍者というと敵の拠点に忍び込んだり、後方での撹乱をイメージする方も多いかもしれませんが、”隠密任務もこなす傭兵集団”といったほうが実情に近いかもしれませんね。

天正十八年(1590年)【小田原征伐】では鉄砲奉行として従軍し、18もの首を挙げ、なかなかの戦果を誇っています。

小田原城をぐるりと囲んだ豊臣軍/photo by R.FUJISE(お城野郎)

この戦に関しては、軍旗に関するこんなエピソードが伝わっています。

正成の使っていた「白地に黒五字」を、家康が使番の旗として使いたいと言ってきたのです。

このため正成は別の旗を使うようになり、服部氏の用いた「源氏車に矢筈」あるいは「矢尻付き三つ矢筈」が替わりの旗にされたと考えられています。

旗の件も含めてなのか、小田原での戦功に対する恩賞として、正成は遠江に領地を与えられました。

家康が関東に入った後はさらに与力と伊賀同心を与えられ、計8,000石の領地持ちに出世。

他の武将や大名たちと比べると控えめな数字に見えますが、徳川家の中では新参者の部類なので、功績と差し引きされた結果でしょうか。

しかし、同心たちは「俺たちは徳川家に仕えたのであり、服部に仕えているわけではない」と考え、反発が絶えなかったという話も伝わっています。

正成の死後もこの件は尾を引き、跡を継いだ息子・正就も悩んだようです。

正就が改易された後、細かく分割され、それぞれに旗本が指揮者としてつけられ、ようやく収まったそうですが……。

 

毎年11月14日は西念寺で半蔵忌

文禄元年(1592年)、徳川軍は肥前名護屋へ滞陣することになりました。

朝鮮へ出兵する【文禄の役】に備えてのことですが、徳川軍は渡海せず、駐屯していたため、正成も実戦には参加していません。

他にも多くの大名家から来た軍が名護屋に滞在しており、隣には前田軍の陣がありました。

そしてあるとき、徳川軍と前田軍の間で諍いが起きてしまいます。

”戦の準備をしているのに出陣しない”となれば、ストレスも溜まり、そんな連中が衝突するのですから、戦闘寸前にまで発展。

正成が鉄砲を向けて脅した、とか、本多忠勝が出て収まったと言われています。

本多忠勝/wikipediaより引用

その後は大きな問題に巻き込まれることなく、亡くなったのが五年後の慶長元年(1597年)。

関ヶ原の前、というか秀吉よりも早く亡くなっているんですね。意外に感じた方も多いのではないでしょうか。

お墓は、東京都新宿区の西念寺にあります。

同寺は正成が信康の菩提を伴うために創建した安養院の後身にあたるとのこと。

創建自体は家康の命を受けてのものだったようですが、前述の信康介錯の話が事実であれば、正成にも何かしらの意図があったことでしょう。

彼の名は、違う形でも残っています。

東京メトロでも有名な「半蔵門駅」であり、そもそもは正成とその一族が江戸城裏手にあたる位置に屋敷をもらったことからきています。

皇居の裏口に当たるため、現在も厳重に警備されていますね。

甲州街道の出発地点でもあったりします。

また、正成にゆかりのある武具も多々伝えられています。

真偽不明な話が混ざっていたり、江戸城の火事や戦時中の空襲で消失してしまったものも多いのですが、西念寺には正成所用とされる槍が伝わっています。「無銘の槍」のほうです。

現存部分の全長は258cm、重さ7.5kg。

穂先が折れてしまい、柄も空襲の被害で焼失してしまったようで、正成が使っていた頃はさらに長く重たかったことでしょう。

当時の槍は6m前後の長さが標準だったそうですので……いやはや。

こうした個人的な戦闘能力の高さゆえに「忍者の長」というイメージが強まったのかもしれません。

前述の通り、毎年11月14日には西念寺で「半蔵忌」の法要が営まれているとのこと。

西念寺は皇居と新宿御苑のおおよそ中間にあり、道中には半蔵門駅もあります。

このエリアをゆっくり散策しながら、正成や江戸初期に思いを馳せてみるのも一興かもしれません。

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【参考】
西念寺(→link
国史大辞典
『徳川四天王-江戸幕府の功労者たちはどんな人生を送ったのか?』(→amazon
歴史読本編集部 『伊賀・甲賀 忍びの謎 影の戦士の真実を暴く (新人物文庫)』(→amazon

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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