蜻蛉切

本多平八郎忠勝像と愛槍「蜻蛉切」(レプリカ)

徳川家

忠勝に愛された槍「蜻蛉切」天下三名槍の一本に数えられるその素性は

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蜻蛉切
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柄を2丈にして徳川軍偵察隊の殿を

別の説では、「蜻蛉切」を手に入れたのは16歳の時であり、「蜻蛉切」と名付けられたのは「一言坂の戦い」を経てからという話もある。

なにせこの戦い、まるで三国志の張飛である。

「蜻蛉切」の柄を2丈にして徳川軍偵察隊の殿(しんがり)を務め、見付に火を放って武田軍の進軍を阻止。

遠回りしてきた武田軍を食い止め、徳川家康が「池田の渡し」から、舟で天竜川を渡り切ったのを確認すると、自分も天竜川を渡った。

本多平八郎忠勝が舟に乗った時、迫ってきた武田軍との距離は、わずか

【竿1本分】

だったなんて話も伝わる。

当面見来見附台(当面見来す見付台)

台辺繋馬立裴徊(台辺馬を繋いで立ちて裴徊す)

太平有象松山色(太平象有り松山の色)

忠勝勇名倶壮哉(忠勝勇名倶に壮なる哉)

山崎闇斎『遠遊紀行』(明暦4年(1658年))

『天龍川御難戦之圖』

上掲の『天龍川御難戦之圖』で、右側・黒い馬に跨っているのが徳川家康で、左側・名槍「蜻蛉切」を手に栗毛の馬に跨っているのが本多忠勝

奥に見える天竜川の対岸が池田で、さらに奥が見付台(磐田原)にあたる。

このとき家康は、忠勝をこう言って迎えた。

──今日の進退度に中り、無比類儀、我が家の良将。(『浜松御在城記』)

さらに、蜻蛉切の製作者についても触れておこう。

 

作者・藤原正真について

作者は、三河文殊派第二代・藤原正真とされる。

村正の子または弟子とする俗説もあるが、まぁ間違いであろう。

なにせ『徳川家に仇為す』という俗説もある村正を、徳川四天王が使っているというのも腑に落ちない。

大和鍛冶(大和手掻系金房派)の南都金房隼人丞正真(藤原正真)と同一人物だとする説もある。

果たしてこれもどうだろうか。刀工は、同じ名の人が多いので混乱してしまう。

ここは通説通り、藤原正真を蜻蛉切の作者として彼の墓から見て参りたい。

墓所の脇には案内板があり、蜻蛉切の作者であることが記されている。

「刀匠 文殊四郎正真の墓所

大和国手掻包永の一派の刀工。田原の住人で、最も有名な作品に本多忠勝所持「蜻蛉切り」と呼ばれる天下の名槍をうった作者である。

慶長16年(1611)8月22日没 64歳」

田中家墓所の藤原正真の墓(愛知県田原市)

案内板に記されている【大和国手掻包永】がわかりにくいと思われる。

これが何を指すか?

「大和五派」(千手院、手掻、当麻、保昌、尻懸)の一つである「手掻(てがい)派」。

鎌倉後期の藤原包永を祖とし、奈良東大寺の西の正門である「転害(てんがい)門」の門前で寺に従属し、室町時代まで続いた刀工集団である。

そのうち手掻派の藤原包氏・包吉が美濃国に移住すると、「包」の名を「兼」に改め、それぞれ志津三郎兼氏、善定兼吉(美濃国関※現在の岐阜県関市の善定家の祖)となる。

藤原包吉(文珠四郎包吉・龍王包吉)は、手掻派四代包永の弟子で、藤原正真の師とされる。

田原城主・戸田憲光に呼ばれて田原(愛知県田原市)に移り住むと、文殊包吉と名乗って、三河文殊派の祖となった。

永禄7年(1564年)、本多彦三郎(豊後守)広孝が田原城主に就任。

その縁で、本多忠勝(16歳)は、文珠包吉に槍の制作を依頼した。

本多氏は藤原氏の後裔なので、「藤原包吉」と聞いて若干の興味は持ったのだろうか。

しかし、文珠包吉は年老いており、彼の一番弟子であった藤原正真が、師のもとで打ったのが名槍「蜻蛉切」でった。

文珠包吉は、田原に来て4年後に亡くなっている。

──出藍の誉れ(青は藍より出でて藍より青し)

と言ったら文珠包吉には失礼であろう。

「蜻蛉切」は、藤原正真を通して文珠包吉の余命も注ぎ込まれた名品である。

藤原正真は、吉田(愛知県豊橋市)の田中久右衛門の子で、弟子の中で最も優れていたので、息子がいなかった文珠包吉は、娘と結婚させて婿養子とし、三河文殊派を継がせたのだった。

ちなみに村正は、美濃国・赤坂兼村の子で、赤坂千手院鍛冶(千手院派)の刀工とされているが、彼の活動拠点はなぜか美濃国ではなく、本多平八郎忠勝が晩年を過ごした伊勢国桑名(現在の三重県桑名市)である。

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