蜻蛉切

本多平八郎忠勝像と愛槍「蜻蛉切」(レプリカ)

徳川家

忠勝に愛された名槍「蜻蛉切」天下三名槍の一本に数えられるその真髄に迫る

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蜻蛉切
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作者・藤原正真について

作者は、三河文殊派第二代・藤原正真とされる。

村正の子または弟子とする俗説もあるが、まぁ間違いであろう。

なにせ『徳川家に仇為す』という俗説もある村正を、徳川四天王が使っているというのも腑に落ちない。

大和鍛冶(大和手掻系金房派)の南都金房隼人丞正真(藤原正真)と同一人物だとする説もある。

果たしてこれもどうだろうか。刀工は、同じ名の人が多いので混乱してしまう。

ここは通説通り、藤原正真を蜻蛉切の作者として彼の墓から見て参りたい。

墓所の脇には案内板があり、蜻蛉切の作者であることが記されている。

「刀匠 文殊四郎正真の墓所

大和国手掻包永の一派の刀工。田原の住人で、最も有名な作品に本多忠勝所持「蜻蛉切り」と呼ばれる天下の名槍をうった作者である。

慶長16年(1611)8月22日没 64歳」

田中家墓所の藤原正真の墓(愛知県田原市)

案内板に記されている【大和国手掻包永】がわかりにくいと思われる。

これが何を指すか?

「大和五派」(千手院、手掻、当麻、保昌、尻懸)の一つである「手掻(てがい)派」。

鎌倉後期の藤原包永を祖とし、奈良東大寺の西の正門である「転害(てんがい)門」の門前で寺に従属し、室町時代まで続いた刀工集団である。

そのうち手掻派の藤原包氏・包吉が美濃国に移住すると、「包」の名を「兼」に改め、それぞれ志津三郎兼氏、善定兼吉(美濃国関※現在の岐阜県関市の善定家の祖)となる。

藤原包吉(文珠四郎包吉・龍王包吉)は、手掻派四代包永の弟子で、藤原正真の師とされる。

田原城主・戸田憲光に呼ばれて田原(愛知県田原市)に移り住むと、文殊包吉と名乗って、三河文殊派の祖となった。

永禄7年(1564年)、本多彦三郎(豊後守)広孝が田原城主に就任。

その縁で、本多忠勝(16歳)は、文珠包吉に槍の制作を依頼した。

本多氏は藤原氏の後裔なので、「藤原包吉」と聞いて若干の興味は持ったのだろうか。

しかし、文珠包吉は年老いており、彼の一番弟子であった藤原正真が、師のもとで打ったのが名槍「蜻蛉切」でった。

文珠包吉は、田原に来て4年後に亡くなっている。

──出藍の誉れ(青は藍より出でて藍より青し)

と言ったら文珠包吉には失礼であろう。

「蜻蛉切」は、藤原正真を通して文珠包吉の余命も注ぎ込まれた名品である。

藤原正真は、吉田(愛知県豊橋市)の田中久右衛門の子で、弟子の中で最も優れていたので、息子がいなかった文珠包吉は、娘と結婚させて婿養子とし、三河文殊派を継がせたのだった。

ちなみに村正は、美濃国・赤坂兼村の子で、赤坂千手院鍛冶(千手院派)の刀工とされているが、彼の活動拠点はなぜか美濃国ではなく、本多平八郎忠勝が晩年を過ごした伊勢国桑名(現在の三重県桑名市)である。

 

工房兼屋敷跡は「田中家墓所」となっている

天正5年(1577年)、本多広孝は嫡子・本多康重に家督を譲った。

田原城主になった本多康重は、天正18年(1590年)、徳川家康の関東移封に伴い、上野国の白井城主となる。

父・本多広孝や藤原正真の次男・源左衛門も上野国(群馬県渋川市白井)へ。

その後、白井城主は井伊直政の次男・直孝が城主になり、本多氏の手に戻るも、康重の子・紀貞が無嗣子で亡くなったので、白井藩は廃藩、白井城は廃城となっている。

藤原正真は、白井へ移住せず、田原に残り、慶長16年(1611年)に亡くなった。

現在、工房兼屋敷跡は「田中家墓所」となっている。

歴代田中氏の墓(田中家墓所)

戦場での主力武器は刀――ではなく槍である。

実践に用いられるため損傷が激しく、そのため現存数が極めて少ない。

「蜻蛉切」は名槍だけあって、柄こそ残されていないが、穂は現存。

今は静岡県三島市の佐野美術館に保管されている。

レプリカは、岡崎公園(愛知県岡崎市)の「三河武士のやかた家康館」の体験コーナーにあり、実際に持つことが可能。

ご興味をお持ちの方は、冬休みに足を運ばれてもよさそうだ。

※ただし、岡崎公園サイト(→link)で事前に確認を

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著者:戦国未来

戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。

モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派。本サイトで「おんな城主 直虎 人物事典」を連載する。

自らも電子書籍を発行しており、代表作は『遠江井伊氏』『井伊直虎入門』『井伊直虎の十大秘密』の“直虎三部作”など。

公式サイトは「Sengoku Mirai’s 直虎の城」

https://naotora.amebaownd.com/

Sengoku Mirai s 直虎の城

【参考資料】
・「忠勝ことし廿五歳、黒糸の鎧に、鹿角打たる冑をき、蜻蜒切といふ槍を、馬手のわきに、かいこうで、二反ばかりに、押寄せたる敵御方の眞中に、馬をしづかにあゆませ入れ、御方を下知して引退く、見付の人家に火を懸けて、濱松にこそ歸りけれ、忠勝が振舞ひ、敵味方の目を驚かす、敵の方より見付の坂に榜(たてふだ)を建てゝ、家康に過ぎたる物は二つあり、からのかしらに本多平八、この謡は、信玄の近習に杉右近助がよみしなり、此程は、戰國の最中なれば、外國の物は、世にめつらしかりしに、三河武者十人に七八人、冑の上に、■(牙+攵+尾)縷を装ひしを見て、かくは讀みしなり、からのかしらとは、■(牙+攵+尾)縷の事をいひしなり、槍の身長きに、柄ふとく、二丈計なるに、青貝をすつたり、蜻蜒の飛來て、忽ちに觸れて切れたれば、かくぞ名付しなる、忠勝年老て後、或日桑名の城下、町家河原に出て、馬に乘りながら、此鎗の石突をとりて振りけるに、歸りて柄三尺斗切て捨たり、人怪みければ、兵仗は、おのが力をはかりて用ゐるべきものなりといひしなり。」(新井白石『藩翰譜』・国立国会図書館デジタル

・「一、蜻蛉剪槍は長一尺四寸二分、笹身三角、參州田原ノ住人藤原正眞作也、銘ニハ藤原正眞ト有之、穂一ハイニ樋アリ、倶利伽羅剣(イ龍)、上下ニ梵字五ツ彫物アリ、鞘は身形ノ黒塗也、柄はシホゼノ打柄長サ一丈三尺、白銀具眞鍮色繪菊桐ノ紋アリ。私考、參州田原文殊藤原正眞ガ作也ナリト云フ。」(『岡崎市史』・国立国会図書館デジタル

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