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【蜻蛉切】
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工房兼屋敷跡は「田中家墓所」となっている
天正5年(1577年)、本多広孝は嫡子・本多康重に家督を譲った。
田原城主になった本多康重は、天正18年(1590年)、徳川家康の関東移封に伴い、上野国の白井城主となる。
父・本多広孝や藤原正真の次男・源左衛門も上野国(群馬県渋川市白井)へ。
その後、白井城主は井伊直政の次男・直孝が城主になり、本多氏の手に戻るも、康重の子・紀貞が無嗣子で亡くなったので、白井藩は廃藩、白井城は廃城となっている。
藤原正真は、白井へ移住せず、田原に残り、慶長16年(1611年)に亡くなった。
現在、工房兼屋敷跡は「田中家墓所」となっている。
戦場での主力武器は刀――ではなく槍である。
実践に用いられるため損傷が激しく、そのため現存数が極めて少ない。
「蜻蛉切」は名槍だけあって、柄こそ残されていないが、穂は現存。
今は静岡県三島市の佐野美術館に保管されている。
レプリカは、岡崎公園(愛知県岡崎市)の「三河武士のやかた家康館」の体験コーナーにあり、実際に持つことが可能。
ご興味をお持ちの方は、冬休みに足を運ばれてもよさそうだ。
※ただし、岡崎公園サイト(→link)で事前に確認を
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著者:戦国未来
戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。
モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派。本サイトで「おんな城主 直虎 人物事典」を連載する。
自らも電子書籍を発行しており、代表作は『遠江井伊氏』『井伊直虎入門』『井伊直虎の十大秘密』の“直虎三部作”など。
公式サイトは「Sengoku Mirai’s 直虎の城」
https://naotora.amebaownd.com/
【参考資料】
・「忠勝ことし廿五歳、黒糸の鎧に、鹿角打たる冑をき、蜻蜒切といふ槍を、馬手のわきに、かいこうで、二反ばかりに、押寄せたる敵御方の眞中に、馬をしづかにあゆませ入れ、御方を下知して引退く、見付の人家に火を懸けて、濱松にこそ歸りけれ、忠勝が振舞ひ、敵味方の目を驚かす、敵の方より見付の坂に榜(たてふだ)を建てゝ、家康に過ぎたる物は二つあり、からのかしらに本多平八、この謡は、信玄の近習に杉右近助がよみしなり、此程は、戰國の最中なれば、外國の物は、世にめつらしかりしに、三河武者十人に七八人、冑の上に、■(牙+攵+尾)縷を装ひしを見て、かくは讀みしなり、からのかしらとは、■(牙+攵+尾)縷の事をいひしなり、槍の身長きに、柄ふとく、二丈計なるに、青貝をすつたり、蜻蜒の飛來て、忽ちに觸れて切れたれば、かくぞ名付しなる、忠勝年老て後、或日桑名の城下、町家河原に出て、馬に乘りながら、此鎗の石突をとりて振りけるに、歸りて柄三尺斗切て捨たり、人怪みければ、兵仗は、おのが力をはかりて用ゐるべきものなりといひしなり。」(新井白石『藩翰譜』・国立国会図書館デジタル)
・「一、蜻蛉剪槍は長一尺四寸二分、笹身三角、參州田原ノ住人藤原正眞作也、銘ニハ藤原正眞ト有之、穂一ハイニ樋アリ、倶利伽羅剣(イ龍)、上下ニ梵字五ツ彫物アリ、鞘は身形ノ黒塗也、柄はシホゼノ打柄長サ一丈三尺、白銀具眞鍮色繪菊桐ノ紋アリ。私考、參州田原文殊藤原正眞ガ作也ナリト云フ。」(『岡崎市史』・国立国会図書館デジタル)