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【徳川秀忠】
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関ヶ原の遅刻~将軍就任への影響は?
徳川秀忠にとっての不安要素。それは不名誉でお馴染みのエピソード【関ヶ原の遅参(遅刻)】です。
順を追って見ていきますと……。
慶長五年(1600年)7月、徳川軍とそれに従う豊臣恩顧の武将も会津へ進軍しておりました。
目的は上杉征伐。
五大老の一人でもあった上杉景勝が軍備を増強し、かつその腹心・直江兼続が『直江状』という手紙を家康に出して、徳川家に喧嘩を売っていたのです。
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徳川軍としてもこれを捨て置くことはできず、会津へ。
するとそのタイミングで石田三成が上方で挙兵しました(西軍)。
会津へ進軍していた徳川軍(東軍)は、途中で上杉征伐を取り止め、西へと反転。
家康や豊臣恩顧の武将らは東海道を進み、徳川軍の主力を率いた徳川秀忠が中山道を選びます。
◆東海道
→家康本隊と豊臣恩顧の武将(福島正則や山内一豊など)
◆中山道
→徳川秀忠と徳川軍主力
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大事なのは途中にある上田城
徳川秀忠の主力部隊(約3万8千)と、家康の本隊は、近江や美濃で合流する予定だったとされます。
その際、秀忠が通ったルートが、ざっと以下の地図のようなイメージでした。
小山評定の小山(栃木県小山市)を出て京都まで、現在距離で約430kmの大移動。
大事なのは途中にある上田城です。
徳川に反目した真田昌幸と真田信繁(真田幸村)が籠もる信州の要衝であり、これを大軍で奪い取ろうとしました。
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しかし、結果は皆さんご承知の通り、真田昌幸の戦術に振り回され、犠牲者を出しただけで退散。
いわゆる【第二次上田合戦】に敗れ、そこから慌てて関ヶ原を目指したものの、戦いには間に合わず家康にこっぴどく叱られた!というものです。
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要点は二つ。
◆少数の真田を相手に大軍で負けたこと
◆おまけに天下分け目の戦いに遅刻したこと
この二つの不幸が重なり、秀忠は後世にまで凡将扱いされるのですが……結果から言うと、
「秀忠は何も悪くない」
と見るほうが自然な気がします。
というのも、秀忠率いる徳川軍主力は、中山道(特に真田)を押さえることが第一の目的とされていたのです。
それが、東海道を進んだ豊臣恩顧の武将らの進軍が思った以上に早く、あっという間に岐阜城まで落城してしまったため、途中から方針を変更。
家康も秀忠に向かって「すぐに美濃へ来るように!」と連絡をしたのですが、その連絡係が悪天候に阻まれて遅れ、さらに徳川軍も中山道の狭い道に進軍を阻まれ、結局、関ヶ原の本戦に間に合わなかったのです。
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