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【戸田氏鉄】
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関ヶ原合戦図屏風に描かれた氏鉄像は???
江戸時代後期に描かれた『関ヶ原合戦図屏風』です。
関ヶ原の戦いを語る時に欠かせないこの屏風。
実は氏鉄さんも描かれています。
しかも、場所は家康の本陣!
屏風の右下になるのですが……以下に拡大版を置いてみますね。
ほら!氏鉄さんがいるじゃないですか!
緑の◯で囲まれている人物です。
しかも、その隣には「明智光秀と同一人物!?」なんて説もある怪僧・南光坊天海までいるんですからスゴい!
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この時、数え歳で25歳だった氏鉄さんは、まさに家康の超側近だったことが窺えます……と言いたいところですが、実はこの屏風、氏鉄さんの死後100〜200年以上も経過してから描かれておりました。
どうやら後に藩祖となった氏鉄さんの活躍をアピールするため、大垣藩関係の方がオーダーした作品とも言われています。
ただ、これは単純な捏造とかではなく、氏鉄さんが江戸時代も大垣の人々に愛されていたことを示すものなのではないかと思うわけです。
尼崎城築城の腕を見込まれ高虎と共に
その大垣に、氏鉄さんが移るのはもう少し後のお話。
「大坂の陣」では居城の膳所城(滋賀県大津市・家康の天下普請によって築かれた重要な城)を守備していた氏鉄さんは、元和3年(1617年)に尼崎藩5万石の藩主となりました。
2代将軍・徳川秀忠の時代です。
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尼崎というと、今年3月29日に外観を復元した天守がグランドオープンしたことで話題になった尼崎城があります。
ちなみに天守は、旧・ミドリ電化(現在はエディオン傘下)の創業者・安保詮さんが、創業地への恩返しとしてポケットマネーを10億円以上かけたことでも注目を浴びました。
この尼崎城を築城した人物というのが、氏鉄さんです!
大阪の西を守る重要拠点として、氏鉄さんが丹精を込めて建てた尼崎城。
その名城ぶりが話題となっていたのか、元和5年(1619年)には時の将軍の徳川秀忠が視察に訪れています。
そして、築城センスを認められた氏鉄さんは、翌年から10年に及ぶ大坂城改築工事の普請総奉行に指名されているのです。
なお、総責任者は“築城名人”として後世まで語り継がれる藤堂高虎ですので、その下で責任者だった氏鉄さんの力量も素晴らしいものだったことがご理解いただけるでしょう。
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治水事業で地元住民リスペクト
さて、そんな氏鉄さんが、尼崎において現代まで語り継がれている功績といえば城……ではなく河川工事です。
尼崎は当時、湿地帯が広がっており、神崎川の洪水に度々悩まされていました。
そこで氏鉄さんは、神崎川の支流を広げる大工事を行って流れを改善し、洪水の被害を少なくしたといいます。
尼崎の人々は氏鉄さんに感謝し、その支流を氏鉄さんの通称「左門」に因んで「左門殿川」と呼び始め、現在に至っています。
また、左門殿川には、同じく氏鉄さんに因んだ「左門橋」という名の橋も架けられています。
アンケートは実施していないので何とも言えませんが、尼崎市民ならきっと知っているに違いない!
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