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【小松姫】
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「一人ぐらい討ち死にすれば!」
次に小松姫の有名な逸話が出てくるのは【大坂冬の陣】のときのことです。
このころ信之は病気になっており、出陣できなかったため、代わりに長男・真田信吉と次男・真田信政が参加しました。
二人とも若年のため、小松姫の弟である本多忠朝の陣に参加することで、折り合いをつけています。息子たちにとっては叔父さんですね。
小松姫はこのとき、信吉の家臣に向けてこんな手紙を書いております。
「息子はまだ若いので、いろいろ至らないことも多いでしょう。信之殿に免じてよろしく奉公してやってください」
カーチャンらしい気遣い……といいたいところですが、二人の息子が無事役目を終えて帰ってきたとき、小松姫は
「一人くらい討ち死にすれば、我が家の忠心が示せたのに!」
と言ったという逸話があります。
飴がなさすぎる上に鞭が強すぎだよ、カーチャン(´・ω・`)
とはいえ、信吉や信政と小松姫が大ゲンカしたという話もないので、息子たちのほうはカーチャンの気質をよくわかっていたのかもしれませんね。
病気療養のため草津温泉へ行く旅の途中
そんな小松姫が亡くなったのは、大坂夏の陣から四年後、元和6年(1620年)のことです。
この頃もやはり、諸大名の妻と同様江戸にいたと思われますが、病気療養のため草津温泉へ行く旅の途中だったとされています。
そんな重病人に長旅をさせたのか、という気もしますが、「駕籠で移動するから、旅程に余裕を持てばおk」と考えられたんですかね。
享年48。
遺骨は小松姫が帰依していた勝願寺、沼田の正覚寺、上田の芳泉寺(当時は常福寺)の三ヶ所に分骨され、さらに信之は上田城下と松代城下でそれぞれ小松姫の菩提を弔うためのお寺を建てています。
それだけ小松姫に感謝していたのでしょうね。
夫婦間のエピソードはあまり伝わっていませんけれども、信之が家中や幕府との関係に悩んだときなど、小松姫がアドバイスするようなこともあったのかもしれません。
戦国武将の妻が主役になる創作物というのはあまり見られませんので、そういった夫婦の会話にも力を入れて誰かに物語化していただきたいなぁ。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
渡邊大門『井伊直虎と戦国の女傑たち (知恵の森文庫)』(→amazon)
歴史読本編集部『物語 戦国を生きた女101人 (新人物文庫)』(→amazon)
小松姫/Wikipedia