徳川家康

徳川家康/wikipediaより引用

徳川家

徳川家康はなぜ天下人になれたのか?人質時代から荒波に揉まれた生涯75年

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天正壬午の乱

旧武田は恐ろしくカオスな状態になっておりました。

主君を失った武田家臣や国衆が一揆を起こし、領内にとどまる織田系武将に牙を剥いていたのです。

この土地を越後の上杉、相模の北条、そして三河の徳川が見逃すわけもありません。

甲斐・信濃・上野は三者が火花を散らす場となったのです。ただし、上杉景勝は新発田重家の反乱が起こっていたこともあり、積極介入しにくい状況でした。

この混乱の中、旧武田家臣である真田昌幸が活躍します。

状況を見て、つく相手を替える昌幸は、この【天正壬午の乱】の鍵を握る存在でした。

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徳川家康ははじめ北条相手に苦戦をするのですが、当初は北条方だった昌幸を味方につけたあたりから、状況が好転します。

徳川と北条は同盟を結び、ひとまず乱は終わるかに見えたのですが、予想外の事態が起こりました。

この和睦交渉で、北条氏政は上野国沼田領を要求。家康は昌幸に引き渡しを求めたのです。

「だが断る。沼田領は徳川から与えられた領土ではない」

昌幸としてはせっかく味方したのに沼田を求めるとは、家康に恩を仇で返されたようで腹が立ったとは思います。

言うなれば昌幸に筋がある――とはいえ、家康としてもまさか断られるとは思ってもいなかったでしょう。

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天正13年(1585年)、家康は真田討伐のために家臣を出兵、第一次上田合戦が起こります。

家康としては生意気な国衆をひねり潰すくらいの気持ちだったかもしれません。国衆と大名ではまず戦いにならないのが普通です。

ところが真田は普通ではない。

家康は圧倒的少数の相手に対して、手痛い敗北を被ったのでした。

しかも昌幸が徳川方を撃退した上田城は、昌幸が家康配下であったときに、家康の許可を得て建てたものです。まさに屈辱的な敗北でした。

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このあとも真田一族は、家康の人生の転換点において、あまりありがたくない形で顔を出します。

それにしてもこの天正壬午の乱というのは、重大な戦いであり、錚々たる大名が絡んでいるにも関わらず、注目を集めにくいような気がします。

本能寺で信長が倒れると、注目は華々しく仇打ちを遂げる秀吉に集まってしまうということもあるでしょう。

戦いの最後で真田に大敗し、味噌を付けてしまったため、というのもあるのでしょう。

しかしこの乱で家康は、しっかりと自分なりの天下餅をこねているのです。

思うように介入できなかった上杉、どうにも精彩を欠いているように思える北条に対して、家康は確実に旧武田領を獲得し、新たなる天下人たる秀吉も無視できない存在になったのです。

 


小牧長久手の戦い

天正10年(1582年)、織田信長が倒れ、徳川家康が旧武田領で激しい死闘を繰り広げている頃。

畿内は空白状態になりました。

信長の後継者たちは狼狽し、光秀を討とうにも、まるで動きが止まったような状況です。

そんな中、毛利攻めに赴いていた秀吉は、敵と素早い講和を結ぶと京都へ戻り、【山崎の戦い】で光秀を打ち破ったのでした。

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信長の死から一月ほどのち。

清洲会議において信長と共に討ち死にした嫡男・織田信忠の遺児・三法師を織田家後継者とし、その叔父である織田信孝織田信雄を後見とすることが決定されます。

しかしこの決定後も、信孝と信雄の確執は続きます。

信孝は柴田勝家、信雄は秀吉と結び、信長の家臣団をも巻き込む争いに発展。天正11年(1583年)、【賤ヶ岳の戦い】となり、勝家が敗北、自刃します。

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同様に信孝も切腹へと追い込まれました。

勝った側の信雄ではありますが、この頃から秀吉との仲が悪化。信雄は家康に接近します。

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記述が前後しますが、この要請は第一次上田合戦の前です。

家康と秀吉はついに天正12年(1584年)、【小牧・長久手の戦い】で対決することになります。

この戦いは、家康にとって「勝負に勝って試合に負けた」と言えるのではないでしょうか。

数で劣る家康・信雄連合軍は最終的に講和を結び、家康は次男・於義丸(のちの秀康)を人質として秀吉に送っています。

とはいえ、長久手方面において徳川勢は敵を圧倒しました。徳川四天王・井伊直政や家康の側近・安藤直次らの活躍によって森長可池田恒興を討ち取り、羽柴秀次が率いていた本隊を壊滅状態に追い込んだのです。

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森長可の首は、戦場からさほど離れていない菩提寺まで運ばれる途中、敵の目をかいくぐって進むことを断念して埋葬されたと伝わります。

長可ほどの名だたる武将がそのような目にあわねばならなかったほど、徳川勢は強く、綿密な警戒をしていたのでしょう。

講和後、家康と秀吉の間では戦いには至らないものの、和解もしない、冷戦状態が続くことになります。

そんな中、衝撃的な事件が起こります。

天正13年(1585年)、長年仕えてきた石川数正が突如秀吉の元へと出奔してしまったのです。

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数正は、駿府での人質時代から苦楽をともにしてきた家臣です。

しかも彼は軍事機密情報を握っていたわけですから、それがすべて敵の手の内に渡るということです。

彼の出奔は、これだけ重要な事件であるにも関わらず、動機はハッキリしません。

秀吉との対決を唱える強硬派に対して、数正は和平派。秀吉との交渉に疲れてきたのか、向こうの方がよいのではと思えてきたのでしょうか。

いずれにせよこの出奔によって家康は軍制改革をしなければならなくなります。

このとき力になったのが、旧武田家臣たちでした。

天正14年(1586年)になると、秀吉は懐柔策を取って家康に接近してきます。

実妹・朝日姫を家康に正室として迎えさせ、さらに人質として生母・大政所をも送ってきたのです。

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こうなると家康も、流石に秀吉からの上洛要請を断り切れなくなります。

仕方なく上洛したような形かと思われますが、家康にとってはなかなか美味しい話でもありました。

この時期に朝廷から「三位中将」に叙任されているのです。家康にとってはかなり嬉しい叙任ではありますが、「従一位関白」である秀吉と同席したらば下位に置かれるということでもあります。

それでも、損と得を天秤にかければ、官位(※官位とは官職位階の組み合わせを意味します)には大きな魅力がありました。

秀吉としては手強い家康をついに屈服させたのです。

官位授与の効果は抜群で、これに抵抗できる大名はいません。

この時期、家康は藤原から源氏に改姓しています。家康はもともと源氏にしたいと願っていましたが、その動機は将来的に「征夷大将軍」を希望していたからでした。

のちの歴史を考えると家康はこの頃から将軍としての天下を狙い、着々と動いているようにも思えますが、公家の頂点を極めた関白秀吉からすれば、せいぜい「征夷大将軍=東国武士の抑え」と解釈できるのではないでしょうか。

事実、家康は今後東国武士の抑え、代表のような役割を果たします。

関ヶ原まで、あと十二年です。

※1……徳川四天王(本多忠勝榊原康政・井伊直政・酒井忠次の4名)

 


小田原征伐からの江戸移封

小牧・長久手の戦いから数年間、秀吉が九州を征圧する間、豊臣政権下で徳川家康とその家臣たちは一息つく日々を送ることになります。

若い頃から戦場を駆け巡ってきた彼らにとって安息の日々でした。

こう書くとまるで家康がのんびりと餅つきを横で見ていたようですが、もちろんそうではありません。領内の整備といった内政や検地、さらには関東や奥羽の大名との外交も行っていました。

九州まで征圧した秀吉の目は、関東・奥羽に向けられます。

奥羽の大名は、鎌倉以来の名門であることを誇りとし、また貴族である関白に恭順することに抵抗を示す者もいました。

一方では、今権威を味方につければ一発逆転ができるとばかりに、いち早く秀吉に認められようとする者もいました。

そして関東には、北条家がありました。

北条家には難攻不落の小田原城、南奥を制した若き独眼竜・伊達政宗との同盟関係、そして姻戚関係にある徳川家康という、頼りになるものがあります。

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家康としては、秀吉に服従以来同盟は破棄されたようなものであり、家康自身も北条氏政・北条氏直父子に服従するよう迫っていたのです。

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しかし相手は応じません。

北条家周辺をめぐる関東は、導火線のない火薬のような状況におちいっていました。

そこへ導火線を差し込む男が登場します。

あの真田昌幸です。

真田昌幸/wikipediaより引用

第一次上田合戦の原因となった沼田領問題は、真田方の勝利によって宙に浮いていました。

家康の訴えを聞いた秀吉は、昌幸に沼田領を北条へ引き渡すように命じたのですが、ここで昌幸が沼田領の名胡桃領だけは真田のものとして認めさせたのです。

北条からすれば沼田の中の名胡桃だけ残すというのもおかしな話で、強硬奪取していまいました。

もはや問題は、北条と真田のものだけではない状況。秀吉が命じた分割案である以上、北条は秀吉に背いたことになったのです。

名胡桃という小さな導火線に火が付き、北条家を吹き飛ばす小田原攻めが開戦するのでした。

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圧倒的な戦力差にも関わらず、北条方は望みを捨てませんでした。

家康が北条を救う手段を講じるかもしれない、陸奥から伊達政宗が来援するかもしれない……しかしどちらも起こりません。

やがて政宗は秀吉の本陣に訪れ帰順。万策尽きた北条氏は降伏して難攻不落の小田原城を明け渡し、滅亡を迎えたのでした。

家康は北条滅亡を受けて、関東へ移封されます。

しかし家康は北条氏の本拠ではなく江戸を首府として選び、整備を進めえます。

現代でも首都東京として発展しているだけに、地理的には申し分のない選択であったと言えます。周期的に地震が発生することはこの時点ではわからなかったことですし。

こうしてみると、家康は秀吉がこねた餅を食べるのを待っていたというより、東日本で餅をこねていたと言えるのではないでしょうか。

関ヶ原まで、あと十年です。

 

豊臣政権内の人格者・家康

改めて振り返ってみると、小田原落城から関ヶ原まで十年しかありません。

その間、全国平定を終えた秀吉の野心は、海外へと向けられました。

文禄・慶長の役です。

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この海外への遠征は秀吉だけの考えではなく、信長もその志向があったようです。ただし、明や朝鮮と通商するにとどまるものかもしれませんが。

ハッキリしているのは、秀吉の中でこの海外への野望は危険きわまりない大陸征服を目的としたものになりました。

この時代の合戦は他の領土に攻め込み、資源を掠奪する経済活動という面がありましたから、国を富ませるためならば必要という意識もあった可能性があります。

徳川家康はこの出兵に反対の立場であり、前田利家と連名して諫書を秀吉に送りました。

立場としては留守役であり、渡海せずに名護屋に留まります。後の秀吉没後は朝鮮半島からの撤退指揮、朝鮮からの使節との会見等、この出兵をおさめる働きをしています。

忘れてならないのが、この戦で石田三成加藤清正らから反発を受けたことでしょう。

また小早川秀秋は戦場での不手際を秀吉から厳しく責められ、家康によって取りなしを受けました。

多くの者が疲弊した中で、家康は存在感を示し、人望を上げることになっていたのです。

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更に、朝鮮出兵の出兵で暗いムードの豊臣政権において、世間に衝撃を与える大事件が起こりました。

文禄2年(1593年)、秀吉に第二子・拾丸が誕生。

その二年後の文禄4年(1595年)、秀吉の後継者とみなされていた関白・豊臣秀次が切腹したのです。

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強要されてのものなのか。追い詰められて突発的に自害に及んだのか。諸説ありますが、確かなのはこの事件が豊臣政権に大きな打撃を与えたことです。

秀次の死後、秀吉はその妻妾三十余人を処刑する――という愚挙に及ぶのです。

ピンチに陥ったのは妻子だけではありません。秀次と親しかった大名たちも謀叛の嫌疑をかけられ、窮地に陥ります。

例えばその中には伊達政宗もおり、彼らに手をさしのべ、弁護したのが家康でした。

かような無茶無謀が繰り返されていく豊臣政権のもとで、大名たちは不満をため込んでいきます。

しかしそのはけ口はぶつけようにもない。そうした大名たちにとって、家康は心のよりどころになってゆくのです。

そして慶長3年(1598年)、秀吉が死亡。残されたのは僅か六歳の秀頼でした。

不満の貯まった歴戦のツワモノ大名たちを押さえ込める器量もくそもない幼齢です。

関ヶ原まで、いよいよあと二年。

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