徳川家康

徳川家康/wikipediaより引用

徳川家

徳川家康はなぜ天下人になれたのか?人質時代から荒波に揉まれた生涯75年

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徳川と豊臣 ふたつの公儀

関ヶ原の勝利は、あくまで徳川家康という豊臣政権の家臣が「君側の奸」である石田三成らを成敗したものでした。

このあとも家康は淀殿・秀頼母子には臣下の礼を取っています。

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家康は関ヶ原の論功行賞を行い、諸侯の加増や減封を行いますが、あくまで秀頼の家臣として実施した、というカタチになります。

三年後の慶長8年(1603年)、家康は将軍宣下を受けました。位階は従一位となります。

そしてその二年後、慶長10年(1605年)には将軍の座を嫡子・秀忠に譲ります。

戦国三英傑の中で唯一にして初めて、存命中にスムーズな権力移譲(将軍職)を実行したのが家康なのでした。

この時点から豊臣家滅亡まで、あと十年です。

家康が着々と徳川幕藩体制を整える中、問題となってきたのが西の豊臣秀頼でした。

家康が将軍に任官される過程において、打倒したのはあくまで石田三成であり、豊臣秀頼ではありません。

つまり、徳川幕府が成立しても依然として西には豊臣氏の政権もあった。いわば東西にふたつの公儀がある状況です。

家康は豊臣のこねた餅を座ったまま食べたというよりも、別の餅をこねた状況でした。

この東西二つに公儀がある状況は、当初は安定しておりました。

それをどこで家康が方針を転換したのか、何故そう思ったのか。これは状況から推理するべきでしょう。

家康は、信長が手に仕掛けていた天下を秀吉が奪う様を見ました。豊臣の天下を骨抜きにする過程を自ら企て、実行にうつしました。

天下を奪う手口を誰よりも知っているのが家康です。天下を取ることは難しい、そしてそれを維持することはそれに輪を掛けて難しい。

自らの存命中に豊臣の天下を潰さねば、徳川の安泰はないのではないか。武家棟梁としての経験の浅い秀忠には荷が重いのではないか。

かといって、すぐにでも大坂への軍事行動が起こせるとも思えない状況です。

慶長16年(1611年)、二条城で家康と秀頼は会見を果たします。

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立派に成長した秀頼の傍らには、ぴったりと加藤清正がついていました。

問題は、青年となった秀頼よりも清正です。

彼ら豊臣恩顧の武将が健在であるうちは、秀頼相手に軍事行動を起こすことは難しいのではないでしょうか。

懸念は豊臣だけではありません。毛利、島津、上杉、佐竹ら、関ヶ原後に大規模減封された外様大名も、徳川に不満を抱いています。

もし、もう一度、関ヶ原前夜のように天下が乱れたら、彼らも呼応するでしょう。

そのとき果たして、秀忠は天下を守りきれるのか。

しかしその清正は会見の二ヶ月後に急死。

さらにその二年後には、清正と並ぶ豊臣恩顧の有力武将・浅野幸長も世を去ります。

状況は変わりつつありました。

火薬はあります。あとは導火線に火が付くのを待つだけです。付くか付かないか、大坂派の出方次第でした。

 


大仏殿鐘銘事件から大坂冬の陣へ

大坂の陣の引き金となった「方広寺大仏殿鐘銘事件」。

慶長19年(1614年)、秀頼が再建をすすめていた方広寺大仏殿が完成し、そこの鐘に刻まれた文字が問題となります。

「国家安康 君臣豊楽」

家康の諱を切断し、豊臣が栄えるように読める……家康が無理矢理ケチをつけたとか、挑発したとかいろいろと言われています。

しかしこれは、こじつけというより、豊臣方の依頼で銘文を考えた僧・清韓が狙って入れた文言であり、むしろ大坂方の悪ノリが根底にありました。

インターネットに挑発的な文言を書き込むことを「炎上狙い」と呼びますが、これぞまさに大坂城まで炎上させる結果となった、歴史上に残る「炎上狙い」ではないでしょうか。

にしても「そこまでやるか」と家康の対応を批判的に見る向きもあるかと思います。

このあたりは、当時の人の諱へのタブー感や、呪詛への忌避感を考慮しなければいけないでしょう。

言葉に対する重みは、現代よりもずっと憚れるものがあり、家康のクレームも決して荒唐無稽とは言い難い。

そして家康は、この事件を端緒として、ついに人生においてやり残した最後の仕事に着手します。

大坂冬の陣」の始まりです。

家康は行軍の合間に、京都や奈良で古典調査や寺社仏閣見物をする余裕を見せました。

幼い頃、太原雪斎の薫陶を受けたという家康は、古典や書籍に親しむ知性の持ち主でもあります。老境であり、かつ軍中というときでも、知的好奇心を満たすべく行動をしています。

いやはや、驚嘆すべきタフネスぶり。

一方、大坂城には続々と牢人が集まっていました。

その中には、真田信繁(真田幸村)、後藤又兵衛基次ら、手練れの者も含まれていました。

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これもよくよく考えてみればなかなか恐ろしいことだと思います。

当時の日本には、彼らのような従軍経験があり、腕の立つ者が、仕官もせずそのあたりにいて、ひとたび何かが起これば集まってくるのです。

牢人は平時においては、潜在的に危険な存在と言えます。関ヶ原が終わって十五年も経つのに、日本各地から戦争のエキスパート、不満を持つ者たち、武器、軍資金が大坂に集まるのです。

この時点では乱世に時が戻る可能性があったということでしょう。

真田信繁は「真田丸」と呼ばれる出城・曲輪を築き、敵を苦しめます。真田丸での奮戦のような戦術上のファインプレーがあったとはいえ、戦略的には終始攻め手が勝っていました。

大坂方の果敢さと守りの堅さに手を焼いた家康は、オランダ製の大砲を持ち出します。

ヨーロッパの城郭と違い、日本の城郭は砲撃に対して無力でした。砲弾は淀殿の侍女を圧死させ、彼女とその周辺の者たちに大きな心理的打撃を与えました。

この大坂の陣は、戦国の世に幕を引くものです。装備の面でも集大成でした。

鉄砲の装備率も各軍ともに高く、オランダ製の大砲までありました。もし戦国の世が続いていたとしたら、どんな兵器や戦法が日本で使用されたか想像すると、なかなか興味深いものがあります。

砲撃で心理的有利にたった徳川方は、和睦交渉を行います。

このとき徳川方は外堀だけを埋める条件のはずが、勝手に内堀まで埋めてしまった、卑怯だ、とよく言われています。

しかし、工事内容が非常に大がかりなものであり、騙してそんなことができたわけではありません。

そもそも和睦の条件なのですから、城として防御力を低くするのは当然です。

内堀まで勝手に埋めた、というのはこのあと「大坂夏の陣」が起こるとわかっている、歴史の結果を知った者による誇張や創作ではないでしょうか。

したがって、最近では「家康が騙し討ちのように勝手に内堀を埋めた!」という話は否定されています。

 


大坂夏の陣 豊臣家そして家康の最期

いったんは和睦を受け入れた大坂方。

徳川から出された条件のうち「大坂城を退去し、他の領地に移ること」だけはどうしても飲めませんでした。

徳川家康としては、豊臣家が大坂城から出たら、知行も減らすことなく好きな土地を与えると約束していたのです。

天下を担う家ではなく、ただの一大名になればよいということなのですが、これを豊臣家としては受け入れることができなかった。

家康としては、一応助け船を出した、とも言えるのではないでしょうか。ここまで好条件を出しても拒むというなら、もはや手切れということです。

4月には交渉は決裂し、再戦はやむを得ない状況に。4月も終わる頃から、大坂方は出撃を開始します。

しかし、既に大坂城は防衛機能を失っていました。大坂方には城を出撃する案もあったようですが、結局は城の南で決戦を挑むことになりました。

5月6日までの戦闘で大坂方は追い詰められ、7日、両軍は天王寺口で激突。

ここまで圧倒的不利である中、大坂方は善戦しました。もはやこれまでだと追い詰めた彼らは、最後の武士としての花道を飾るべく、猛烈な攻撃を仕掛けました。

中でも天王寺の口の戦いにおける毛利勝永と真田信繁は驚異的な戦いぶりを見せました。家康本陣まで乱れたほどの猛攻は、伝説的な武勇として歴史に刻まれたのです。

善戦はあったとはいえ、大坂方は徐々に押されて城内へ撤退しました。徳川方は三の丸にまで迫ります。

7日深夜、大坂城内にいた叛逆者が城に放火。徳川方はこれに乗じてさらに火を放ち、大坂城は炎に包まれます。

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淀殿・秀頼母子は秀頼の正室で家康の孫にあたる千姫を逃し、彼女による助命嘆願に一縷の望みを繋ぎます。

千姫は無事に脱出したものの、秀忠は彼女が自害しなかったことを激怒し、助命嘆願を一蹴したのでした。

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このあと、山里郭の土蔵で火を避けていた淀殿・秀頼母子に、土蔵を警護していた徳川方から銃弾が浴びせかけられます。

自害を促す無言の回答――。三十名あまりの供とともに、母子は自害、土蔵には火がかけられたのでした。

5月8日、正午頃のことでした。

僅か十日ほどで、終わりを迎えた大坂夏の陣。その後も家康にはやるべきことがありました。

幕藩体制の基礎となる『武家諸法度』、朝廷に対する『禁中並公家諸法度』、寺院に対する『寺院諸法度』等を制定。

その翌年の元和二年(1616年)一月、家康は鷹狩りの最中に倒れてしまいます。

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「天ぷらを食べて死んだ」というのはよく言われていることですが、年齢と長年の労苦を考えてみれば、食あたりはあくまで引き金であって、死因ではないでしょう。

むしろ死の前年まで出陣できた壮健さが驚異的なのであり、日頃から健康に留意していたことがうかがえます。

それからおよそ三ヶ月後の4月17日、家康は駿府にて七十五年の生涯を終えました。

辞世は以下の通りです。

◆先に行く あとに残るも同じこと 連れて行けぬをわかれぞと思う

乱世に生まれ、生き抜き、そしてそんな時代に終止符を打った英雄の最期でした。

 

「ピースメーカー」としての再評価

いきなり話が四世紀も飛ぶことをお許しください。

筆者が徳川家康の偉大さを認識したのは、日本の裏側であり、かつ家康の生きた時代から四世紀も隔たった、メキシコにおける麻薬戦争について考えていた時でした。

2006年から始まったこの内戦状態は、十年以上を経ても終息の気配がありません。

麻薬を売買するギャングの跳梁跋扈によって乱れに乱れきったメキシコ。

メキシコ人の国民性に結びつけた論調もありますが、私はそうは思いません。

・政府の無力化

・勢力同士の小競り合いが常時発生している

・市民レベルまで私刑や暴力による解決が根付いている

・全国に流通する武器

・経済活動として横行する掠奪

こういった要素は、応仁の乱以降の戦国時代にも共通するものがあります。

戦国時代の人々は中世だからこそ残酷である、というのは半分正解で、半分そうではないのでしょう。たとえ現代であろうとも、こうした不幸な要素が揃えば、人は暴力で解決しあう無法状態に陥ってしまうのです。

自分がメキシコ大統領であるとして、この戦争をどう終わらせるか。そう考えただけで気が遠くなります。

麻薬を焼き捨て、マフィアを殲滅し、武器を回収する。それだけでもどれだけの年数と労力がかかることでしょうか。

とかく厄介なのは、人の心の問題です。

麻薬戦争の開始から十年を経て、人の心や意識も変化しました。最も深刻なのは、物心ついたころから戦争状態にある子供たちです。

「大きくなったら麻薬を売りさばいて金持ちになって、ミスコン優勝者の美女を侍らせて、サツどもはぶちのめす」

こういう像が成功イメージとして彼らには植え付けられているわけです。「そんな道を歩んではいけないよ」と大人が言ったところで、どれほどの説得力があるのでしょうか。

家康が生まれ、生き抜いた戦国時代は、まさにこのように生まれた時から暴力にさらされ、解決手段として用いられ、いかにして効率的に暴力を行使するかが求められた時代でした。

家康はこうした人の心を変えるところまで為さねばなりませんでした。

大坂の陣の頃には、若い武士たちは戦い方がわからなくなっていました。寛永14年(1637)【島原の乱】ではほとんどの武士が戦い方を忘れていました。

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このことは堕落であるかのように思われますが、むしろ人の意識が正常化していったあかしとも言えます。

あれだけ日本全国にあふれていた鉄砲は、戦闘ではなく狩猟に使われるものとなりました。武士は腰に刀を差していたものの、不用意に抜いたらば厳しい処分が待ち受けていました。

暴力が当たり前であった日本人は、江戸期を通じて変貌を遂げるのです。

もちろんこうした過程は、家康一人の力では為すことができません。豊臣時代からの惣無事や刀狩りといった政策も非武装化の流れでは重要ですし、秀忠や家光の代まで試行錯誤は続きます。

それでもこの太平の世への転換に最も大きな役割を果たしたのは家康でしょう。

冒頭の国内外での家康評価の差を考えてみると、日本人は天下取りの過程を重視するのに対して、海外の場合は太平の世をもたらし、維持したという点を重視しているのでしょう。

家康と同時代前後一世紀には、スペインのフェリペ二世、イギリスのエリザベス一世、ムガル帝国のアクバル、フランスのルイ14世、清の康煕帝、ロシアのピョートル大帝といった、その国の近代政治を確立した錚々たる君主が名を連ねています。

この面々に家康が加わることができるのもまさしく、政権の基礎を築き維持することができたからこそです。

しかし、日本国内では反対です。

江戸幕府が日本を支配し、それが二百六十年という長さにわたって続いたがゆえに、各時代の歴史家は家康の像をその時代にあわせて描きました。

「徳川史観」にせよ、「アンチ徳川史観」にせよ、どうしてもフィルターがかかってしまうのです。

フィルターを除去することももちろん大切ですが、世界史から家康像を眺めてみると、このフィルターがそもそもかかっていない状態で見ることができるわけです。

時代が変わり、現代の国家は武力闘争で天下を争うようなことはなく、むしろ軍事力による政権奪取は禁じ手になりました。

家康の天下を奪取する手段というのは、もはや現代政治においては参考にはできないものです。

しかし、内戦状態の国家を安定させ、人心から暴力を遠ざけるという手段は、むしろ現代でこそ見習いたいものであり、色褪せてはいません。

その点がまさしく徳川家康を世界史上でも傑出した存在としているのではないでしょうか。

 


徳川家康の生涯年表

1542年 1才 岡崎城で生誕
1547年 6才 人質横取り事件で織田家へ
1549年 8才 父・広忠が家臣に殺される
1549年 8才 今度は今川義元の人質
1551年 10才 信長が織田家を継ぐ
1555年 14才 元服
1558年 17才 初陣
1560年 19才 桶狭間の戦い・石田三成生誕
1562年 21才 清洲同盟(織田家と徳川家)
1562年 21才 今川氏真から独立
1563年 22才 三河一向一揆の勃発
1563年 22才 松平元康から松平家康に改名
1566年 25才 松平家康から徳川家康に改姓
1567年 26才 信長、岐阜城へ移転
1568年 27才 信長、上洛
1570年 29才 金ヶ崎の退き口(浅井・朝倉の挟撃に遭い、秀吉や光秀らと殿)
1570年 29才 姉川の戦い(織田軍と共に浅井長政に勝利)
1571年 30才 信長、比叡山延暦寺を焼き討ち
1572年 31才 三方ヶ原の戦い(武田信玄にフルボッコにされる)
1573年 32才 信玄、死亡
1573年 32才 足利義昭が京から追放で室町幕府の滅亡
1574年 33才 信長、浅井朝倉を滅ぼす
1575年 34才 井伊直政を家臣に取り立てる
1575年 34才 長篠の戦い(織田徳川連合軍で武田勝頼に大勝)
1578年 37才 松平信康(徳川信康)の切腹事件
1579年 38才 後の二代将軍徳川秀忠が生誕
1582年 41才 武田家を滅ぼす
1582年 41才 本能寺の変
1582年 41才 神君伊賀越え
1582年 41才 天正壬午の乱(甲斐信濃の覇を巡り北条・上杉・真田と争う)
1582年 41才 清州会議(翌年・賤ヶ岳の戦いで秀吉が柴田勝家に勝利)
1582年 41才 井伊直虎、死亡
1583年 42才 第一次上田合戦
1584年 43才 小牧・長久手の戦い
1585年 44才 石川数正が秀吉のもとへ出奔
1586年 45才 秀吉から妹の朝日姫を正室、母・大政所を人質として送られる
1586年 45才 豊臣秀吉に臣従する(大坂城)
1590年 49才 小田原征伐で秀吉が後北条家を滅ぼす
1590年 49才 関東移封で江戸城へ
1592年 51才 文禄の役、始まる
1593年 52才 秀吉に豊臣秀頼が誕生する
1595年 54才 豊臣秀次の自害事件(最上義光の娘・駒姫が巻き込まれる)
1597年 56才 慶長の役、始まる
1598年 57才 秀吉、死亡(秀頼このとき6歳)
1599年 58才 七将襲撃事件で石田三成が中央から失脚
1600年 59才 関が原の戦い(直江状→小山評定→岐阜城の戦い→本番)
1600年 59才 第二次上田合戦で秀忠が足止めを食らう
1603年 62才 征夷大将軍(位階は従一位)
1605年 64才 徳川秀忠に将軍職を移譲し体制を確立
1611年 70才 二条城で豊臣秀頼(with加藤清正)と会見
1611年 70才 豊臣恩顧の代表格・加藤清正と浅野幸長が死亡
1614年 73才 大坂冬の陣
1615年 74才 大坂夏の陣
1615年 74才 武家諸法度・禁中並公家諸法度を制定
1616年 75才 太政大臣になった1ヶ月後に死去
1617年 死後に贈正一位
※太政大臣は臣下で最高位の官職 ※正一位は位階で最高位


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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
笠谷和比古『徳川家康:われ一人腹を切て、万民を助くべし (ミネルヴァ日本評伝選)』(→amazon
笠谷和比古『関ヶ原合戦 家康の戦略と幕藩体制』(→amazon
笠谷和比古『戦争の日本史17 関ヶ原合戦と大坂の陣』(→amazon
『ラルース 図説世界史人物百科Ⅱ ルネサンス−啓蒙時代』(→amazon
国史大辞典

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