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【安藤直次】
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大坂の陣~息子の遺体を見て「犬にでも食わせとけ!」
大坂夏の陣では、まだ幼少の頼宣の代わりに、徳川頼宣軍の指揮を取りました。
家康からも相談を受けながら、豊臣方と戦うのですが。
このとき、嫡子である安藤重能(しげよし)が討ち死にしてしまい、その遺体を見た直次は
「犬にでも食わせとけ!」
と激怒したといわれています。
なんて冷たいヤツなんだ! と、そうではありません。
「指揮官の嫡子が討ち死に」というのは、軍に多大な精神的ダメージをもたらします。
直次は立場上、軍の統率を優先せねばならないために、心を鬼にしたのです。おかげで軍は平静を取り戻した……とされています。
実はこれより前、重能は主君である頼宣の茶器を割ってしまったことがありました。
それは家康から贈られたものだったため、直次も重能もただでは済まないと思い、親子揃って謝罪に行っています。
しかし頼宣は笑って「あれは確かに父上から頂いた名物だが、茶器が戦で役に立つわけでもあるまい。壊れたのなら適当に修理しておけ」と許したとか。
重能は、もしかしたら頼宣のために死ねる場所を求めていたのかもしれません。
当時、討ち死には名誉なことでしたし、豊臣家を倒せば戦がなくなるであろうことも気付いていたでしょう。
人目を避けて泣いていた……
大坂夏の陣は、主に豊臣方の【武士の意地】が伝えられがちです。
彼らの最期は、以下の記事にもありますように鮮烈で物語性にも富んでいます。
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大坂夏の陣の全貌がわかる各武将の戦闘まとめ~幸村や又兵衛の散り際とは?
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しかし合戦である以上、勝者にも敗者にも犠牲者がいて、直次だって息子の死に何も感じなかったワケはないでしょう。
彼については、人目につかない時間帯になってから、あるいは大坂の陣が終わってから、深く嘆いていたという言い伝えもあります。「厠で大泣きしていた」という説も……。
いずれにせよ、直次が公私をきっちりと分ける性格であったことがうかがえる逸話です。
その後は亡くなるまで、頼宣を時に厳しく諌めながら、付家老の役目を果たしました。さすがに石高も大幅に加増されており、最終的には38,800石になっています。
頼宣は後に「自分が大名をやっていられるのは、直次がいてくれたからだ」とまで言っていたとも伝わります。
いかにも「三河武士」といった気骨のある安藤直次も寛永12年(1635年)に死去。
当人が自らの功績を語ることを控えていたため、世間にはあまり知られておりませんが、徳川家の天下が彼らのような忠臣に支えられて成り立っていたことは明白でしょう。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
煎本増夫『徳川家康家臣団の事典』(→amazon)
峰岸純夫片桐昭彦『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon)
安藤直次/wikipedia