こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【大久保忠世】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
長篠の戦い
天正3年(1575年)5月に【長篠の戦い】が勃発。
これまたご存知、武田軍と織田徳川連合軍による合戦であり、今度は信長と家康らが勝頼率いる武田軍を散々に打ちのめしました。
長篠の戦いで信長の戦術眼が鬼当たり!勝因は鉄砲ではなく天然の要害だった?
続きを見る
長篠の戦いといえば、少し前までは【鉄砲の三段撃ち】が日本中に知られるような有名エピソードでしたが、今では創作だとしてほぼ認定された感もありますよね。
大久保忠世は、弟の大久保忠佐や与力たちと共に戦っていたところ、織田信長の目に留まり称賛されたという話があります。
「あの敵について離れぬ戦いぶり、まるで良い膏薬(こうやく・塗り薬)のような侍だ」
よほど忠世たちの戦ぶりが気に入ったのでしょう。
わざわざ家康へ使者を出してその名を尋ね、「家康のほうが、家臣を育てる能力に優れている」と感じたとか。
確かに信長は、人を育て上げるというより、優れた人物を見出すことが得意で、家康は手元にいる人物をじっくり育て上げる印象がありますよね。
まぁ、大久保忠世と家康をダブルで持ち上げている感も相当なものですが……いずれにせよ信長から認められていた可能性は否定できず、家康からの信頼も上々といったところでしょうか。
長篠の戦いから少し経過した天正3年(1575年)12月、忠世は二俣城(浜松市)の城主を任されました。
この城は、当時の徳川にとって最重要拠点の一つとも言えます。
以下の地図をご覧いただければ一目瞭然なように、
信濃(長野県)からの進路にばっちり立ち塞がっているんですね。言わずもがな武田家に対する押さえです。
地図を拡大していただくと明らかになりますが、蛇行する天竜川を背にして建っており、天然の要害といった佇まいが凄まじい。
天正壬午の乱
長篠の戦いで、信玄以来の重臣を数多く失った武田勝頼。
それでもすぐに滅びるほど武田家は脆弱ではありませんでしたが、7年後の天正10年(1582年)2月、織田信忠率いる織田軍と呼応して徳川軍が武田領へ攻め込むと、穴山信君(穴山梅雪)などの裏切りもあり、ついに滅亡へ追い込まれます。
穴山信君は卑劣な裏切り者なのか?信玄の娘を妻にした武田一門の生涯
続きを見る
大久保忠世もこの戦いで武功を挙げ、いよいよ信長の天下!というところで急転直下の大事件が起きました。
天正10年(1582年)6月、本能寺の変です。
このとき徳川家康や穴山信君が共に堺に居て、その後【神君伊賀越え】で家康が無事に帰還したのに対し、信君が野盗に殺されるのは有名な話ですね。
大久保忠世が力を発揮するのは、その後ほどなくして起きた【天正壬午の乱】です。
本能寺の変により空白地帯となった旧武田領を巡り、徳川・上杉・北条・真田の間で起きた争乱です。
武田滅亡後の領地を奪い合う「天正壬午の乱」徳川・上杉・北条に真田を交えた大戦乱
続きを見る
家康が旧武田領に進出すると、忠世は小諸城(小諸市)に入り、戦略を言上します。
「諏訪頼忠を味方につければ、小笠原氏などもこちらにつくでしょう」
「また、依田氏に本領を安堵して先手を任せるのが良いでしょう」
諏訪頼忠は、その名の通り諏訪神社の神官を務めてきた諏訪氏の人です。
諏訪氏は神職と武士を兼ね備えた特殊な家柄であり、諏訪神社の祭神・建御名方(タケミナカタ)が武神的な性格を持つことから、地元豪族の代表者のような面も持っていました。
こういった諏訪の事情を有利に使おうという狙いのものだったと思われます。
依田氏は、信玄の時代までは武田氏の傘下にあった家。
この時点の当主・依田康国も武田氏へ人質に行っていたことがありました。
康国は天正10年当時、まだ10代前半の少年でもあったため、徳川氏が後ろ盾につく旨を表明すれば、味方につけることも容易だと思ったのでしょう。
この二つの発言は両方とも家康に容れられ、康国の監視は忠世に任されました。
また、徳川氏に従うことになった武田旧臣の本領安堵についても、忠世が受け持っています。
この辺りから忠世は、家臣たちの仲立ちや、仲裁役なども務める存在となっていったようです。
一例が井伊直政とのエピソードでしょうか。
※続きは【次のページへ】をclick!