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【徳川頼房】
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十一男十五女の子だくさん
大きなトラブルもなく、身を処してきた徳川頼房。
おそらく、嗣子である徳川光圀の言動には手を焼いたものと思われます。
派手な親子喧嘩に発展するようなことにはならず、頼房が亡くなる間際には、光圀自ら看病したともされています。
記録に残らない日常においては、一般には知られない温かい会話もあったかもしれませんね。
そして頼房は寛文元年(1661年)7月29日に水戸城で亡くなり、「威公」という諡号を与えられています。
儒教に基づいた中国風の諡号も、水戸家の伝統として受け継がれていきました。
ちなみに光圀は「義公」、幕末の話題でたびたび登場する徳川斉昭は「烈公」です。
なんとなく「なぜその字をつけたのか」がうかがえますね。
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頼房が後世に大きな影響が二つ
頼房が後世に大きな影響を残した点が二つあります。
一つは、前述の学問奨励→水戸学→尊皇攘夷の流れ。
そしてもう一つが、男系子孫を数多く残したことです。
頼房は父・家康を超える子福者で、なんと十一男十五女にめぐまれました。
これによって水戸家の血が守られたのはもちろん、他家へ養子に行ったり嫁いでいった人もいましたので、頼房の子孫は文字通り末広がりに栄えていったのです。
2022年時点での徳川宗家のご当主・徳川恒孝氏も頼房の子孫です。
ちなみに女系の子孫を含めると、幕末の名君として有名な島津斉彬や鍋島直正、元総理大臣の細川護熙氏などがいます。
錚々たる顔ぶれですね。
家はもちろんのこと、血を残すことも武家の大きな目的の一つですから、頼房は立派にそれを成し遂げたといえます。
家康やお勝の方も誇らしく思っていたのではないでしょうか。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
藤井讓治『徳川家康 (人物叢書)』(→amazon)
新人物往来社『徳川将軍家・松平一族のすべて』(→amazon)