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【徳川頼房】
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甥っ子・家光と仲良しです
徳川頼房が初めて元和五年(1619年)10月に水戸へ入ってから、以降はかなりドタバタした日々となります。
2ヶ月後には江戸へ戻り、次に水戸へ行ったのは寛永二年(1625年)。
そこから寛永七年(1630年)まで、江戸と水戸をほぼ毎年往復しながら、水戸城や城下町の設備や法の整備を進めているのです。
他の御三家(尾張や紀伊)と比べればかなり近いですが、相当忙しい生活ですよね。
“毎年”ではなく”ほぼ毎年”となっているのは、寛永三年(1626年)に徳川家光のお供として上洛しているためです。
家光とは相性が良かったようで、寛永十年(1630年)にお勝の方(この頃は落飾して英勝院)を通して、
「そなたには何事も相談したいし、兄弟同然に思っている」
と伝えています。
これには家光の家庭環境も影響していたと考えられます。
家光は同母弟・松平忠長と仲が悪く、異母弟・保科正之は信用できるものの出自故に頼りきれない、という状況でした。
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同じく年の近い叔父としては義直や頼宣もいますが、彼らはかつて謀反の疑いをかけられたことがあったため、信じきれなかったのでしょう。
そのため、一番歳の近い血縁者である頼房へ「信頼している」と明言したのではないかと思われます。
これを受けてか、以降の頼房と代々の水戸藩主は江戸常住(定府)となりました。
水戸徳川家の当主に「副将軍」というあだ名がついたのも、ここから来ているようです。
奨学の気風から水戸学へ
水戸藩の領域はもともと佐竹氏の領地だった場所です。
関ヶ原後に同氏が改易され、新しく徳川頼房が入ってきたため、当初は藩政にもなかなか難儀したようです。
一方で頼房は、国元で儒学や神道などの学問にも励みました。
二代藩主となった光圀も学問を好んだため、水戸藩は奨学の気風が定着。やがて”水戸学”という学問体系が作られ、幕末の尊皇攘夷に繋がっていきます。
頼房の時代に水戸家であまり騒動がなかったのは、彼の性格のおかげかもしれません。
実は御三家が「御三家」と呼ばれるようになり、立場が固まったのはもう少し後の時代なのです。
家康が亡くなってから家光の時代くらいまでは、尾張家の義直と紀伊家の義宣の間で「どちらが格上か」といったことで静かに火花を散らしており、年少の頼房は一歩引いたような立場にいました。
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また、家光の時代初期は、前述の徳川忠長が”将軍に最も近い血縁者”だったこともあり、頼房自ら
「御三家というのは宗家と尾張家、そして紀伊家のことを言うのだ」
と主張していたとか。
揉める前に自分の立場を少し下げておくことによって、争いを避けようとしたのかもしれませんね。
それから少し時間が経過して、尾張家と紀伊家がそれぞれの息子に代替わりすると、少し席次が変わり、
1.忠長
2.頼房
3.光友(尾張家二代)・光貞(紀伊家二代)
となりました。
この席次が以降受け継がれていきましたので、水戸家は”官位や領地では尾張と紀伊の二家に及ばずとも、名誉の上では同等以上といえる状態になった”といっても過言ではありませんでした。
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