戦国時代にも痔

穴山信君(歌川国芳作)/wikipediaより引用

徳川家

戦国武将の痔・エンド! 榊原康勝は鞍に血を溜め 梅雪は馬に乗れず殺される

『痔』って他人に言うのが照れてしまう病気ですよね。

患部がお尻の穴なので当たり前かもしれませんが、まぁ、その痛みや出血が大腸癌を発端としたものでもなければ致命傷なんてケースはそんなにありません。

ところが、です。

戦国時代にいたんです。

痔が原因で亡くなってしまった武将さんが。しかも、そこそこ有名人が2人も……。

痔が直接の死因となった榊原康勝。

間接的に死を招いた穴山梅雪(信君・のぶただ)です。

 

戦国武将は常にそのリスクを抱えていた

痔は、肛門周囲に生じた疾患の総称として使われ、医学的には

痔核(いわゆるイボ痔)

裂孔(いわゆるキレ痔)

痔瘻(いわゆるアナ痔)

に分類されます。

今回はこのうち『痔核』についてご説明いたします。

痔核は、直腸や肛門部の粘膜にある静脈がふくらみ、こぶ状になった状態(静脈瘤)です。同じ姿勢や、いきみなどで肛門に負担がかかって血液の流れが悪くなると、発生します。

例えば、乗馬は鞍をまたいだ両足で支える時にギュッと肛門が締まり、しかも同じ姿勢を続けるため痔になりやすいです。

ゆえに戦国武将は常にそのリスクを抱えていたハズ。

痔核はさらに「外痔核」と「内痔核」に分類。

外痔核は肛門部にしこりを作って痛みを伴い、内痔核は痛みこそ少ない代わりにしばしば出血を伴います。

通常は対症療法、例えば下剤や排便後の温浴などで軽快しますが、ひどくなった場合には痔核に薬品を注射して硬化させたり、輪ゴムで縛ったり、それでもダメな場合は手術で治します。

先程も申し上げましたように、肛門からの出血が大腸癌など他の理由でなければ、痔自体で死ぬことは滅多にありません。

ではなぜこの2名は、痔を原因として亡くなってしまったのでしょうか。

 

合戦中に痔が裂けても戦い続ける

まず一人目の榊原康勝は、いわゆる徳川四天王の1人・榊原康政の息子でした。

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康勝自体は三男で、長男が母の家を継ぎ、次男が早死にしていたため彼が家督を継承。

大坂冬の陣では、言うまでもなく徳川方で参戦し、今福の戦いでは佐竹義宣のピンチを救っております。

しかし、翌年・夏の陣では5月6日に木村重成との交戦で大打撃を喰らい、さらに翌日、戦いに出向いた場所が、あの「天王口」でした。

歴史好きの方なら、すぐにピンとくるでしょう。

天王口とは、真田幸村が家康本陣に突撃かけた激戦地です。

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敵味方ともに大きな損害が出たエリアであり、康勝も粉骨砕身で戦ったのは想像に難くありません。

結局、その日の深夜に大坂城は陥落し、家康は完全無欠の天下人になりました。

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康勝は、徳川四天王の後継ぎです。

ゆえに、この先、幕府の土台を支える大事な立場でした。

が、同年5月27日、大坂の陣から引き上げた先の京都にて、26歳という若さで急逝してしまいます。

いったい死因は……。

 

尻から血を流し 最期まで通した武士の意地

死の原因は以前から患っていた“腫れ物”でした。

『難波戦記』によると、康勝は冬の陣で腫れ物(おそらく痔)が破けて、大量出血。

夏の陣の激戦ではさらに痔が悪化しながら、鞍壷(馬の鞍の真ん中部分・人がまたがるため平らになっている)に血が溜まっても、なお戦い続けたと言います。

痔は悪化の一途をたどり、死因となったのでしょう。

失血死か、貧血に伴う心不全か、あるいは痔部分の感染など色々考えられます。

おそらくですが、この痔、初期に安静にし、完治させておけば、死ぬことは無かったハズ。

せめて夏の陣に不参戦であれば……と言ってみましたが、それはどだい無理な話なんですよね。

榊原家と言えば、徳川幕府の中枢ですから、偉大なる父の名に恥じぬよう働かねばならなかった。

そして実際にガンバリ過ぎちゃったのでしょう。

ちなみに康勝には庶子がおりましたが「幼い主君では心もとない」と思った家老が「康勝に子供はいません」と幕府に虚偽報告。

後にバレて、結局ゴタゴタしてしまうという残念なオマケが付いてきます。

お次は穴山梅雪(穴山信君)さんへ……。

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