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武田一族の筆頭格が当主を裏切った
榊原康勝が徳川の重臣であったのに対し、穴山梅雪も信玄存命中の武田家では相当なポジションでした。
なんせ穴山氏自体が武田一族であるだけでなく、梅雪は信玄の姉を母に持ち(つまり信玄の甥)、さらには信玄の娘を妻に娶っていたのです。
ゆえに「武田」姓を名乗ることまで許されおり、親族の中でも筆頭格でした。
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実際に梅雪も、信玄時代においては侍大将として大活躍し、数多の合戦で本陣を守る重要な役目を担っていたのです。
しかし、信玄の死後を境に、その運命はガラリと変わります。
梅雪は、従兄弟かつ義弟にあたる当主の武田勝頼と対立。
天正10年(1582年)、織田軍が甲斐討伐にやってくると、領地拝領と武田氏の名跡継承を条件に武田勝頼を裏切り、武田本家を滅亡へと追い込んでしまうのです。
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そしてその年の5月、梅雪は家康と共に安土城を訪れ、信長に謁見、功労者としてもてなされました。
勝頼を裏切り、自分だけは信長サンに媚びへつらい――と、戦国ファンからは嫌われがちな梅雪ですが、「武田家を残す」という意味では、間違った作戦でもないんですよね。
しかし……。
本能寺でいったい何が?
事態は思わぬ方向へ転がっていきます。
6月1日、家康と共に堺を見物し翌2日、京都へ向かう途中ある事件を知ります。
1582年と言えば『いちごパンツ(1582)のほんのうじ』。
そうです、【本能寺の変】が起きたのです。
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このとき家康は、決死の覚悟で伊賀越えを行い、伊勢から海路で地元・三河まで辿り着いた話は有名です。
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一方、一緒に行動していたハズの穴山梅雪はどうなったのか。
『信長公記』によると、宇治田原越えで「一揆にやられた」と書かれております。
フロイスの『日本史』では、部下が少数であったため数度に渡って襲われ、最初は荷物と部下を失い、最後には当人が殺されたと記されています。
いずれにせよ家康と別行動だったのは間違いない様子ですが、それは一体ナゼだったのでしょう。
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「大金を持っていて、家康に奪われるのを恐れたから」なんて説もありますが、「悪化した痔の痛みで馬に乗れなかった」という話もあるのです。
痛くて乗れないということは外痔核ですね。
アルコールはこの病状を悪化させますので、安土城で深酒でもしたのかもしれません。なんせ料理が素晴らしくて……。
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ともかく、馬に乗れない梅雪は歩みが遅くなり、その途中、落武者狩りに遭って落命。
享年42で、割と若い死でした。
梅雪が主家を裏切ったのは『武田』の血筋を存続させるためだった――先にも述べたようにそんな見方もありますが、残念ながら跡を継いだ梅雪の息子も5年後に18歳で早世し、その血筋は途絶えてしまいます。
どうでも良い話ですが、穴山梅雪は「江“尻”城」の城主でした。
それが痔で亡くなるって、なんだかネタっぽく見えますよね。
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文/馬渕まり(忍者とメガネをこよなく愛する歴女医)
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