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【金地院崇伝】
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大坂の陣の契機となる方広寺鐘銘事件
もう一つは、大坂の役や豊臣氏滅亡の引き金となった【方広寺鐘銘事件】です。
「国家安康」と「君臣豊楽」が不吉である、というアレです。
家康は、板倉重昌(勝重の次男)と金地院崇伝に、この鐘銘の草案を取り寄せるよう命じていました。
そして豊臣家臣の片桐且元に問い合わせたところ、こんな返答がかえってきました。
「これは東福寺の文英清韓が作ったものなので、秀頼様はご存知ないことです! どうしてもというのであれば、私が切腹してお詫びをします!」
いまさら且元が切腹したところで、大きな流れが変わるわけもありません。
板倉勝重もそう考えたのか、その話を金地院崇伝だけでなくと南光坊天海、そして林羅山にも投げかけました。
三人はこんな結論を出します。
「”国家安康”の文言はたしかに不敬だが、清韓はそこまで意識していなかったのでは?」
且元に対しては家康も駿府での面会を許し、こう言いつけます。
「秀頼様のことは故太閤殿下からも頼まれているし、秀忠とは婿舅の関係でもある。余計な疑いが生まれないようにそなたは気を配るべきだから、今後どう振る舞っていくかを取りまとめるように」
崇伝と本多正純はこの後、且元の宿を訪れてどうすべきかを相談しました。
且元は大坂方から盟書(誓約書)を出すことを提案しますが、それでは家康が納得しないと崇伝と正純は回答。
そして後日、以下の条件のいずれかがよろしかろうと書状を送りました。
淀殿の江戸住まいについては、かつて秀吉が母・大政所を家康の下へ送ったことを前例として挙げたそうです。
大政所は1ヶ月程度で大坂へ帰っていますので、言外に「ほんの数ヶ月」という意図があったかもしれません。
しかし、土地や主君・その母に関することとなれば、且元の独断でなど到底決められません。
また、同時期に淀殿からの使者も駿府へやってきていました。
こちらは大蔵卿局(大野治長の母で淀殿の乳母)をはじめとした、淀殿側近の女性3名です。
彼女たちに対して家康はにこやかに応対しつつ「せっかくだから、江戸の見物をしがてら、秀忠に秀頼様の近況を話してやってほしい」と勧めました。
家康は、淀殿の側近に江戸の町を実際に見せ、数ヶ月程度の滞在なら申し分ないという印象を与えようとしたのではないでしょうか。
幼い頃から見知った乳母の発言であれば、頑なな淀殿も耳を貸すかもしれません。
しかし、この後の連絡の不備……あるいは家康側近の誰かの陰謀のせいか、且元と大蔵卿局らの間で不和が勃発。
淀殿や大野治長にも疑われるようになり、結果として大坂の陣(大坂の役)が起きることになりました。
と、ここで話を崇伝の動きに戻しましょう。
大坂の陣から三代目争いへ
金地院崇伝は僧侶ですので、もちろん大坂の役でも戦闘には参加していません。
家康の本陣で諸大名との連絡役などに徹していると、その後、慶長20年(1615年)5月に大坂城は陥落。
城は燃え落ち、豊臣秀頼も淀殿もそのまま亡くなってしまいました。
こうして世間の目が全て【大坂の陣(大坂の役)】へ向いている頃、崇伝は徳川家の私的な面についても助言するとこになりました。
このころ徳川秀忠の跡継ぎの座を巡って、長男・竹千代と次男・国松の間で争いが起きていたのです。
家康としては竹千代に心を決めていて、京都で日を選んで元服させることによって、広く知らせようとしていた。
そこで崇伝が、家康からその話を振られたのが、元和二年(1616年)初めのこと。
崇伝は「竹千代様が生まれた月から良い日を割り出します」と答えましたが、残念ながらその返答を直接本人に伝えることはできません。
その直後に家康が寝込んでしまい、そのまま同年4月に世を去ってしまったのです。
これは崇伝にとって、数少ない失敗だったかもしれませんし、悔しかったことでしょう。
失敗とは少し異なりますが、金地院崇伝の意見が容れられなかった大きな事例がもう一つあります。
他ならぬ家康が亡くなった後の神号です。
崇伝は「明神」、天海は「権現」を推し、真っ向から対立――最終的に徳川秀忠は、天海の以下の主張を認めます。
「故太閤が豊国大明神になった後、豊臣氏は滅びたので、”明神”は演技が良くない」
大坂の役のもとになった方広寺鐘銘事件については、崇伝のほうが深く関わっていますし、これはぐうの音も出なかったでしょうね。
天海は崇伝の二倍近くの年齢だったと考えられますので、「亀の甲より年の功」という言葉そのままになったようです。
といっても、これで立場が悪くなったわけではありません。
駿府に住みつつ、要件によって江戸や京都へ行く、という生活に突入。
そのうち「僧録」という寺院の格や僧侶の任免、訴訟などを担当する役職が崇伝に回ってきたため、江戸に拠点となる寺院を建てることが許されました。
それが上記の地図にもある江戸の勝林山金地院です。
東京タワーの真横という、非常にわかりやすいで場所に建っています。
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