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【金地院崇伝】
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紫衣事件で激怒
金地院崇伝の働きぶりは朝廷にも知られていたようで。
寛永三年(1626年)に「円照本光国師」という号を与えられました。
「国師」は天皇に仏法を教える僧侶に与えられるものであり、本人の死後に名誉として与えられることが多く、生前は異例のこと。
朝廷にも認められるほど崇伝の学識や知恵が優れていたということで、崇伝としても誇らしかったことでしょう。
問題は、この翌年に起きた事件と、それに対する崇伝の言動です。
寛永四年(1627年)、現代では【紫衣事件】と呼ばれる騒動が起きました。
”紫衣”というのは、何十年も修行し、徳と知識を積んだ僧侶のみに与えられる名誉の衣です。
「なぜ紫色なのか?」というと、古い時代においては美しい紫色の染料を作ることが難しかったため、地位の高い者が身につけるものとされました。
しかし、長い戦国の世ですっかり手元不如意な状態が続いた朝廷では、名誉を売って生活の足しにせざるを得ません。
そこで、紫衣を着るにはまだ未熟な僧侶にも許可を与えていたのですが……これに崇伝が大激怒。
しかもそれ以前に「紫衣を願うときには、朝廷の前に幕府の許可を得ること」という法度(法律)が出されていたので、それに対する法律違反の面でも崇伝は怒っておりました。
崇伝自身、幼い頃からひたすら学問に打ち込んで当時の地位を築き上げたのですから、名ばかりの紫衣授与者を許せなかったのでしょう。
このとき、既に紫衣を与えられた者の中で、それに値しないと考えられた者は90名以上もいたとか。
同時に、朝廷の困窮ぶりや情勢への無理解がうかがえます。
しかし、これは勅許を出していた朝廷や後水尾天皇の面子を潰すことにもなるわけで……朝廷方の僧侶である沢庵宗彭や玉室宗珀、江月宗玩などが大反対。
京都所司代・板倉重宗に抗議の書状を出したものの、崇伝の決定を覆すには至りませんでした。
これによって、後水尾天皇は譲位という形で怒りをあらわにします。……位を譲った先が秀忠の外孫にあたる明正天皇なので、結局あまり変わっていないようにも見えますが……。
こうして、崇伝が規則を厳格に守ろうとしたことが諸悪の根源かのように世間では受け取られ、
沢庵宗彭からは「天魔外道」
京都庶民からは「大欲山気根院僣上寺悪国師」
とまで呼ばれました。
どちらも相当にひどい悪口ですが、崇伝は意に介さなかったようで、特に反応は記録されていません。
忠長に面会を求められるも
寛永八年(1631年)のことです。
徳川秀忠が片目を失明し、続いて腹痛や胸痛という嫌なコンボが発生。
医学の未発達な時代ですから、偉い人が病気になると、全国の寺社で病気平癒の祈祷が始まります。朝廷や公家からのお見舞いの使者も続々とやってきました。
その中に、秀忠の次男・徳川忠長(国松)もいました。
家光(竹千代)との後継者争いに破れた後、忠長は不行跡が目立つようになり甲斐で蟄居させられていたのですが、父の病状を知らされ、見舞いと赦免を求めてやってきたのです。
忠長は金地院崇伝と南光坊天海を通して何度も願い出たそうですが、寛永九年(1632年)に秀忠が亡くなるまで許されませんでした。
比較的温情ある言動の多い天海はともかく、理詰めになりやすい崇伝にこの手の仲介はあまり向いていなさそうですが……。
このあたりの対応は、家康が最後まで松平忠輝に面会を許さなかったときと似ています。
忠輝も少々言動に問題があり、蟄居を命じられている間に家康が重体になり……という経緯でした。
崇伝は家光の代でも引き続き幕政に携わっていましたが、秀忠が亡くなった後に自身の体調も悪化。
家光から見舞いや御典医が派遣されましたが、寛永十年(1633年)1月20日に亡くなりました。
外交と宗教の大部分を担っていた崇伝が亡くなったことで、江戸幕府はそれぞれの担当機関を設け、仕事の属人化から脱却していきます。
全体的にみると「秀才で政治的能力に優れていたけれど、融通のきかないところがあり、他人からすると少し親しみにくい」といった感じの人だったのではないかと思われる崇伝。
まだ生まれたばかりの江戸幕府を一人前の組織に育て上げるために必要だった教師――そんな風に見てみると決して悪い人ではなかったなと感じます。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
山下昌也『家康の家臣団(学研M文庫』(→amazon)
永岡慶之助『大坂の陣・人物列伝「金地院崇伝・板倉勝重」』(→amazon)