生まれた日と亡くなった日が同じ――そんな、ちょっと珍しい特徴のある戦国武将・加藤清正。
いわゆる”秀吉子飼い”とか”賤ヶ岳の七本槍”などなど、戦国時代好きには有名な人で、永禄五年(1562年)6月24日に生まれ、慶長十六年(1611年)の同日に死去しました。
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名城・熊本城の築城主としても有名な彼がなぜ人気者なのか?
早速、加藤清正の生涯を見ていきましょう。
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加藤清正 母は秀吉母と従姉妹か
加藤清正は永禄5年(1562年)、現在の愛知県名古屋市中村区に生まれました。
加藤清忠の次男とされ、秀吉の出生地に極めて近いところ。
現在、その場所には「秀吉清正記念館」なんて博物館があるぐらいです。
というのも、秀吉の母と清正の母が従姉妹同士だったとされています(もっと遠縁という説もあります)。
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年齢が25歳ほど離れていますので、当初は”おじさんと甥っ子”というような関係だったんでしょう。
清正は、秀吉が出世し、身辺に人手が必要になったころ召し出されて仕え始めました。
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12歳で仕え始め主要な戦いに参戦
秀吉に仕え始めたときの清正が12歳ぐらい。
まさに”子飼い”なわけで、天正八年(1580年)には初めて所領も与えられます。播磨国神東郡で120石というものでした。
その後は、鳥取城などを攻撃した中国攻めや、明智光秀と雌雄を決した【山崎の戦い】、そして【賤ヶ岳の戦い】に【小牧・長久手の戦い】など。
秀吉が天下人として関白に君臨するまでも、その先も主要な戦いには必ず従軍しています。
賤ヶ岳の七本槍は【誇張】、つまり作り話のようですが、いずれにせよ秀吉のお気に入りだったことは間違いありません。
この後3,000石(近江・河内・山城)に大出世を遂げています。
石田三成がアタマの切れる官僚タイプなら、加藤清正は最前線で走り回る体育会タイプ。
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いわゆる”武断派”なだけに脳筋と勘違いされがちですが、秀吉に熊本を任されるだけあって単なる猪武者とは言えないでしょう。
熊本は、佐々成政が統治してたころに国人の大々的な一揆が起きた、非常に難しい土地です。
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また、秀吉の「唐入り(文禄・慶長の役)」にも有利な位置であり、その活躍を期待されてもおりました。
文禄の役
実際、1592年の唐入りが始まると1万の加藤軍を引き連れ最前線へ。
戦でも築城でも大活躍します。
4月に釜山に到着すると、5月には漢城(現在のソウル)に到達、2人の朝鮮王子(臨海君・順和君)を捕えたのは7月のことでした。
凄まじい戦果ですが、この辺の話が大河ドラマにし辛い要因の一つとなっていそうです。
そして石田三成と激しく対立することにもなりました。
破竹の勢いで連勝を重ねていた清正ですが、朝鮮軍に明の援軍が加わると戦況は苦しくなり、石田三成と小西行長の主導で停戦交渉が進められます。
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そこで、彼が捕らえた王子を返却させられることになりました。

加藤清正の進路(文禄の役)/photo by tokugawa wikipediaより引用
三成に邪魔者扱いされた清正は、讒言でハメられ、伏見での蟄居生活を命じられます。
1596年の慶長伏見地震で、秀吉を救出するため一番に伏見城へ駆けつけたことから謹慎を解かれた――という割と有名なエピソードがありますが、これについては史実ではないという見方が強いですね。
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