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【竹中半兵衛(重治)】
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他でもありません。舅の安藤守就と共に居城・稲葉山城(のちの岐阜城)を攻略するというもの。
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わずかな手勢で城を乗っ取ると、半兵衛はその城を龍興に返し、近江の浅井長政を頼って辞去したともされます。
実際は、斎藤龍興の反撃に遭い城を出ています。
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半兵衛は、領土欲や野心の薄い人物とされることがあります。
そのイメージはこうした行動が元になっていると思われますが、いかんせん潤色された逸話ですので、本当に無欲だったかはわかりません。
ただ、能力が高かったことだけは間違いないでしょう。
龍興が織田信長に破れたあと、浅井長政の客分となり、1年後の永禄11年(1568)には旧領に戻って隠棲しました。
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信長、そして秀吉に仕える
隠棲したからと言って有能な半兵衛が放って置かれるわけもありません。
美濃を攻略した信長は、半兵衛に仕官して欲しいと持ちかけます。
ただし、彼が本当に伝説的な軍師だから――そう見做すことにはちょっと注意が必要です。
半兵衛の経歴について気になるのが三国志や関連作品でお馴染み「諸葛亮」の存在です。
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「三顧の礼」で誘われたとか。
半兵衛が信長より秀吉の方が優れていると見込んだとか。
諸葛亮と劉備の話をトレースした流れで盛られる傾向にあり、そのへんはあくまでフィクションとして楽しむほうが良さそうです。
ぶっちゃけると創作ですね。
実際には、豊臣秀吉の家臣として信長の支配下に入る「与力」扱いでした。
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無論、半兵衛は優れた人物ですが、浅井長政と対立している信長にとって、敵に近い人脈を持つ将は、それだけで魅力があったのは確かでしょう。
実際に半兵衛は、浅井人脈を活用した調略を行っています。
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スーパー軍師像があまりに輝かしいため、かえって実像が見えにくいのですね。
変な言い方ですが、半兵衛はごくごく有能な「武将」です(そもそも軍師という言葉は後に作られたイメージの職です)。
秀吉配下の「両兵衛」
半兵衛は、そのあと秀吉が中国攻めの総大将に任じられると、その家臣として中国に向かいます。
天正6年(1578年)には、宇喜多氏の備前八幡山城攻略で功績。
このころには、同じく秀吉の家臣であった黒田官兵衛孝高とも親しくするようになりました。
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秀吉配下の「両兵衛」とは、この半兵衛と官兵衛をさすことは、よく知られています。
・名前も似ている
・どちらも有能な軍師
そんなわけで、二人はコンビ単位で扱われるわけです。
しかし、くどいようですが、両者とも活躍はかなり誇張されている。そこは考えるべきでしょう。
村重に投獄され苦しむ官兵衛
両兵衛が親しかったことは史実です。
二人の交流における最大のクライマックスは、大河ドラマ『軍師官兵衛』でも盛り上がる荒木村重の謀叛でしょう。
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村重が有岡城に立て籠もり、信長に対して謀反を起こした際、黒田官兵衛はその説得へ。
しかし村重に捕縛された挙げ句、牢獄に幽閉されてしまいます。
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