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【竹中半兵衛(重治)】
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「偽首」で松寿丸の命は救われた
このとき半兵衛は、信長の首実検に「偽首」を差しだしました。
松寿丸の命は救われたのです。
半兵衛が自領に引き取り、家臣の不破矢足の屋敷で匿いました。
しかし、です。
その翌年の天正7年(1579年)4月、半兵衛は病に倒れ、陣中で没します。
享年36。
後に、有岡城が陥落し、ようやく土牢から解放された官兵衛は、半兵衛に感謝の念を示したとされます。
感謝してもしきれない。まさに黒田父子にとって命の恩人でした。
半兵衛亡き後の同家は、嫡子の竹中重門が継ぎました。
重門は、豊臣秀吉、徳川家康に仕え、江戸幕府では旗本(交替寄合席)となっています。
半兵衛が助命した黒田長政が大大名となったことを考えると、少し寂しいと言えるかもしれません。
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これは能力の差というよりも、半兵衛の死が早すぎた影響もあるのでしょう。
やはり、もっと長生きして采配を振るって欲しかった――そう思わせる人生なのでした。
秀吉あっての半兵衛像
フィクションの華々しい軍師像を削ってゆくと、竹中半兵衛の人生は、秀吉の影に隠れてしまいがちです。
彼の活躍をつきつめてゆけば、結局のところ、秀吉がいかに優れていたか、ということにつながります。
半兵衛のものとされている戦果の最終決定者も実行者も、ほとんどが秀吉なのです。
秀吉という日輪の影を反射して輝くのが半兵衛。
もしも彼が長生きしていれば、黒田官兵衛のようにもっと活躍を残すことができたでしょう。
稲葉山城を乗っ取り。
信長に若くして請われて仕え。
秀吉が常に戦場で側におき。
そして『信長公記』にもその死が記載されたということは、やはり優れた人物であるという証です。そこは否定できません。
彼の事績であり、人柄がわかる行動としては、やはり黒田官兵衛・長政父子を救ったことではないでしょうか。
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危険を顧みないその行動は十分賞賛に値するもの。
ドラマ『軍師官兵衛』でも、その熱い友情と交流が描かれています。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
池内昭一『竹中半兵衛のすべて』(→amazon)
大石泰史『全国国衆ガイド 戦国の‘‘地元の殿様’’たち (星海社新書)』(→amazon)