竹中半兵衛重治

竹中半兵衛/wikipediaより引用

豊臣家

官兵衛と並び称される天才軍師の実像~竹中半兵衛36年の生涯まとめ

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投獄され苦しむ官兵衛。

団結する家臣団たちや家族の姿は、フィクションでも大きな見どころとなっています。

大河ファンの方でしたら、今なお栗山善助井上之房、あるいは母里太兵衛後藤又兵衛の顔などが浮かんでくるでしょうか。

官兵衛との連絡が途絶えた信長は、彼が裏切ったと激怒します。

そして官兵衛の嫡男・松寿丸(後の黒田長政)を殺せと秀吉に命じたのです。

 

「偽首」で松寿丸の命は救われた

このとき半兵衛は、信長の首実検に「偽首」を差しだしました。

松寿丸の命は救われたのです。

半兵衛が自領に引き取り、家臣の不破矢足の屋敷で匿いました。

しかし、です。
その翌年の天正7年(1579年)4月、半兵衛は病に倒れ、陣中で没します。

享年36。

後に、有岡城が陥落し、ようやく土牢から解放された官兵衛は、半兵衛に感謝の念を示したとされます。

感謝してもしきれない。まさに黒田父子にとって命の恩人でした。

半兵衛亡き後の同家は、嫡子の竹中重門が継ぎました。

重門は、豊臣秀吉徳川家康に仕え、江戸幕府では旗本(交替寄合席)となっています。

半兵衛が助命した黒田長政が大大名となったことを考えると、少し寂しいと言えるかもしれません。

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これは能力の差というよりも、半兵衛の死が早すぎた影響もあるのでしょう。

やはり、もっと長生きして采配を振るって欲しかった――そう思わせる人生なのでした。

 

秀吉あっての半兵衛像

フィクションの華々しい軍師像を削ってゆくと、竹中半兵衛の人生は、秀吉の影に隠れてしまいがちです。

彼の活躍をつきつめてゆけば、結局のところ、秀吉がいかに優れていたか、ということにつながります。

半兵衛のものとされている戦果の最終決定者も実行者も、ほとんどが秀吉なのです。

秀吉という日輪の影を反射して輝くのが半兵衛。

もしも彼が長生きしていれば、黒田官兵衛のようにもっと活躍を残すことができたでしょう。

稲葉山城を乗っ取り。

信長に若くして請われて仕え。

秀吉が常に戦場で側におき。

そして『信長公記』にもその死が記載されたということは、やはり優れた人物であるという証です。そこは否定できません。

彼の事績であり、人柄がわかる行動としては、やはり黒田官兵衛・長政父子を救ったことではないでしょうか。

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危険を顧みないその行動は十分賞賛に値するもの。

ドラマ『軍師官兵衛』でも、その熱い友情と交流が描かれています。

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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
池内昭一『竹中半兵衛のすべて』(→amazon
大石泰史『全国国衆ガイド 戦国の‘‘地元の殿様’’たち (星海社新書)』(→amazon

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