大坂城

豊臣家

秀吉が心血注いだ大坂城~徳川が潰すも潰しきれなかった歴史を振り返る

こちらは3ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
秀吉の大坂城
をクリックお願いします。

 

無惨な徳川幕府終焉とともに爆散する

東国政権を志向した徳川幕府.。

本拠地を江戸に置くということは、貿易より農業を優先したという見方もできるでしょう。

秀吉の場合、金銀を豊富に用いることこそが、政権のアイデンティティのようなものでした。

・貿易都市である大坂に城を置く

・壮麗な金箔瓦を城に飾る

・金銀でできた貨幣を大名に配る

秀吉の海外志向は【朝鮮出兵】による海外領土獲得だけでは語りきれません。

フィリピンやルソン、台湾まで目配りし、貿易促進を目指す目的がありました。

これに対して徳川政権は、中国の明朝以来、東アジア標準になりつつあった【海禁政策】をとり、石高を重視します。

前述の通り、商業よりも農業を意識しました。

結果、陸奥や出羽といった寒冷な土地においても農業促進が行われていくのが江戸時代です。

中でも仙台藩は日本屈指の米どころとなりました。

しかし、だからこそ限界は訪れます。

時代が降ると貨幣経済が広がり、東国の目は西国を憧れの目で見るようになるのです。

大名たちは大坂商人に金を借りるようになり、そもそも石高だけで財政を把握するなんて無理があるだろう!と痛感する。

そんな青息吐息で、幕藩体制の限界があらわになってきたところで、黒船来航から幕末の動乱へ。

いよいよ徳川幕府が終焉に近づくと、ついに大坂城は徳川にとって“屈辱的な場所”として歴史に刻まれることとなります。

慶長3年(1867年)、最後の将軍である徳川慶喜は大坂城に入ると、居並ぶ幕臣や諸藩の武士に向かって「薩摩を討つべし!」と檄を飛ばしました(【討薩の表】)。

これを受け、幕府軍は大坂城から京都を目指したものの【鳥羽・伏見の戦い】に敗れて形成不利となり、西軍が【錦旗】を掲げていると知ると、慶喜は驚愕します。

彼は城内で長広舌をふるい、挫けず戦えと言いながら、自分だけは大坂城を抜け出し、海路江戸へ逃げ帰ったのでした。

鳥羽・伏見の戦い
鳥羽・伏見の戦いで注目すべき慶喜の大失態~幕府の敗北は当たり前?

続きを見る

江戸幕府にとっては、最悪の展開です。

あれだけ戦いを主張していた大将が真っ先に戦場から逃げ出してしまった。

あまりに無責任で不甲斐ないではないか……。

と、そんな情けない行動は家臣たちのタガも外してしまうようで、慶喜が去って三日後、正月9日に火災が発生すると、火薬庫に引火し、大坂城は大爆発を起こしてしまいます。

豊臣家が滅亡してから253年後、徳川幕府滅亡の年に、大坂城は二度目の大崩壊。

慶喜の逃亡後、一方的に城を任された会津藩家老の山川浩は、皮肉たっぷりに「まさか自分があの城を任されるなんて思っていなかった」と書き記しました。

逃亡してきた慶喜を江戸で出迎えた勝海舟は、「大坂城に籠城して、海軍を活用すればよかっただろう」と苛立ちをぶつけています。

すべては後の祭りでした。

 

それでも愛される「太閤はんの城」として

このあまりに情けない顛末を見ていると、大坂城が今なお「太閤はんの城」と呼ばれることも理解できる気がします。

東からやってきた将軍が一人で逃げて、その後、爆発した……って、なんやねん、それ! と、大阪人ならツッコミたくもなるでしょう。

それに引き換え、赤備えの真田幸村が背負った大坂城は、なんと壮麗で美しかったことか。

絵・富永商太

そう日本中が思ってきたからこそ、真田幸村は立川文庫に時代小説、時代劇に大河ドラマ、ゲームでまで活躍し、その人生最期の地として大坂城も描かれてきました。

秀吉時代に黒と金で装飾されたこの巨大な城は、既にこの世に存在せずとも、人々の意識の中で描かれ続けてきました。

二代将軍・秀忠以降、徳川政権は必死になって「太閤はんの城」というイメージを払拭しようとしながら、結局それは叶わなかった――この現象は歴史の面白さが凝縮されているようにも思えます。

今、大阪の街を見下ろす復元天守閣は、昭和6年(1931年)に復元されたものです。

最初に書いた通り、秀吉本人が見たら唖然としかねないほど、彼が作り上げたものとは異なります。

それでも、大阪の街は、太閤はんに見下ろして欲しい……そんな大阪の誇りが詰まっているように感じてなりません。

軍事施設や政庁としての機能だけでなく、人々の営みという関係から考えても、やはりあの城は実に偉大なものなんだなぁとしみじみ思えてならないのです。

あわせて読みたい関連記事

秀吉の金銀
秀吉を天下人にした圧倒的な財力~巨額の金銀はどこから来たのか?

続きを見る

秀吉のスカウト術
数正も引き抜いた秀吉のスカウト術は何が凄いのか?武士の忠義とは?

続きを見る

秀吉の妻と側室
信長や利家の娘まで!大の女好きで知られる豊臣秀吉には実際どんな側室がいた?

続きを見る

秀吉の成金趣味
秀吉の成金趣味をあなたは笑えますか? 派手好きになるしかなかった天下人

続きを見る

豊臣秀吉
豊臣秀吉のド派手すぎる逸話はドコまで本当か?62年の生涯まとめ

続きを見る

文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
中村博司『天下統一の城 大坂城』(→amazon
福田千鶴『淀殿』(→amazon
別冊歴史読本『太閤秀吉と豊臣一族』(→amazon
新人物往来社『豊臣秀吉事典』(→amazon
歴史群像編集部『戦国時代人物事典』(→amazon
本郷和人『日本史のツボ』(→amazon
野口武彦『慶喜のカリスマ』(→amazon

TOPページへ

 



-豊臣家

×