小西行長

小西行長(落合芳幾作)/wikipediaより引用

豊臣家

小西行長が秀吉に重用された理由とは?商人から武将に転身して大出世

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【文禄の役】という試練

文禄元年(1592年)、秀吉の無謀な野望である【文禄の役】が始まりました。

武士のならいとして、先陣を切ることは名誉なこと。

それゆえ先陣争いが生じます。行長と対立したのは何かと因縁深い加藤清正でした。

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無謀と思われた【文禄の役】は、序盤、日本側が快進撃を続けています。

戦功筆頭に挙げられるのが西行長です。

そのため行長は、韓国の映像作品に出てくることがあります。

しかし、兵站が不十分な日本軍は、やがて勢いを失い、ジリジリと追い詰められてゆきました。

現地にいてその無謀を悟ったのか、行長は軍事行動と同じに明軍との和睦交渉も並行して進めいます。

文禄2年(1593年)には、平壌を守りきれず、漢城まで撤退。

圧倒的不利な態勢の中、軍を崩さぬよう耐え抜いていました。

行長は板挟みの状態に陥っていました。これ以上戦うことはできない。しかし撤退など、秀吉が納得するとは到底思えない。

明としても、朝鮮に援軍を送るメリットはありません。

想定外の戦いであるうえに、北辺の警備や倭寇対策もある。一刻も早くどうにかしたい。

日本と明は朝鮮の反発を棚上げし、小西行長と沈惟敬は共謀しつつ、とりあえず和睦するためだけの案を練り上げてゆきます。

秀吉の意向は全く反映されていません。

緒戦の勝利から自軍の優勢を信じている秀吉は、居丈高な条件を突きつけようとしています。その目を覚まさせることなど到底できなかったのでしょう。

北京へ、そして大坂へ向かい、行長はなんとか和睦を進めようとします。

その努力は、ことごとく徒労に終わります。

秀吉が納得できるわけもなく、和睦は早々に破綻し、己を欺いた行長には死罪を言い渡すほどでした。

周囲のとりなしにより行長は一命を取りとめながら、次なる派兵【慶長の役】でもまた駆り出されます。

そしてこの不毛な戦いは、慶長3年(1598年)に秀吉が亡くなるまで続けられるのでした。

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盟友・三成の呼びかけに応じ

秀吉の死により、後始末をつけさせられることになったのが小西行長です。

いかに終結させるか――石田三成宇喜多直家とは意見が一致。

家康からの接触もありましたが、行長としては三成や直家との関係を重視せざるを得ません。

しかし加藤清正らの怒りもあり、豊臣政権内での揉め事は容易に収まらず、ついには三成が佐和山城に蟄居の処分がくだされます。

行長は宇土城に戻る途中、わざわざ立ち寄っています。

このとき三成から何も告げられませんでしたが、その後、京都に滞在していた行長に書状が届きました。

「共に家康を倒そう」

行長は、三成の思いを無碍にはできません。イエズス会の宣教師にもこのことを打ち明けると、彼らは困惑しつつ、家康は強大だとして反対しました。

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それでも行長は引き返しません。

そして慶長5年(1600年)――上杉討伐に向かった家康の背後を突き、三成は挙兵。

行長は西軍として盟友のもとへ馳せ参じました。

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