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【施薬院全宗】
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政宗の文通相手(取り次ぎ)
大名の取次ぎ役ですから、もはや単なる当直医ではなく、秀吉側近の一人ですね。
もしかすると、こちらの方面で全宗の名を聞いたことがある方が多いかもしれません。
伊達家や佐竹家など、主に東国の大名が秀吉に交渉事をする際に全宗が窓口になっています。
彼らから「秀吉さんにこれこれお願いしたいんで口利きよろしく!」(超訳)な感じの手紙が来たり、秀吉に会うときの取次ぎなどをしていました。
こちらの役目に関するエピソードで有名なのは、やはりというか何というか伊達政宗とのやり取りです。
小田原への遅参といい、秀次切腹事件の巻き添えといい。
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政宗は奥州からはるばる関東や京へ弁明に行くことが度々ありました。
そういうときは全宗のような窓口役にまず「この件について直接お話したいことがあるので来ました」と言って、秀吉へ取り次いでもらう必要がありました。
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どんどん耄碌していく秀吉とはいえ、天下人ですから当然あれこれ仕事があって忙しい。
しかも(#^ω^)になるような案件であれば「直接説明しに来ました!」と言っていきなり来られでもしたら余計怒りが爆発してしまうわけで。
なので秀吉の機嫌と都合が両方折り合うようなタイミングで、話を持ちかけるのが取次役の仕事でした。
政宗の場合、ヘタすれば自ら火に油を注ぎそうな弁解をするので、全宗が肝をつぶすこともままあったようです。
その割に秀吉より一回り年上なのに二年長生きしていますから、全宗もなかなか頑健というか、御仏のご加護というか。
享年74(1522-1599)。
江戸時代には代々施薬院の仕事を受け継いだ
実子が早く亡くなってしまったため、全宗の血筋は残っていません。
しかし、養子になった人が代々施薬院の仕事(施薬院使)を受け継ぎ、施設と共に江戸時代を生き抜きました。
秀隆・宗伯・宗雅・宗園・安宗・宗策・宗寅・宗真・宗維・宗隆・宗顕と続いております。
明治時代に別の人が施薬院の再興をしているので、一度廃れているっぽいのですが……そもそも施設の名前=固有名詞でもないため詳細は不明です(´・ω・`)
今は東大寺がこの名前のついた慈善団体を作っているので、寺子屋のように一般名詞化しているようです。
でも、こういう「はるか昔に端を欲するものが現代にもある」と見ると胸アツですね。全宗GJ。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
戦国人名辞典編集委員会『戦国人名辞典』(→amazon)
宮本義己『戦国武将の養生法 (新人物文庫)』(→amazon)
施薬院全宗/wikipedia