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【仙石秀久】
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九州へ渡った四国勢は初めから危うかった?
順風満帆な人生を送っていた秀久は天正14年(1586年)、九州攻めの先鋒を担う四国勢の軍監として派遣されました。
【主な四国勢】
長宗我部元親
長宗我部信親
十河存保
【軍監】
仙石秀久
この軍勢は、結果論とも言い切れない秀吉の手配ミスでありましょう。
なぜなら彼ら四国軍は出発前から「対立」することが必至の面々。
元親と秀久の因縁について先に触れた通りだけでなく、十河存保(そごうまさやす)と長宗我部元親の間にも過去に対立がありました。
いわば「敵対の三角関係」ともいえる顔ぶれであり、後の大惨事も予見できるものだったのです。
九州へ渡海した秀久らの先鋒隊は、案の定、軍事判断で対立しました。
当時、島津氏の猛攻に晒されていた大友義統(大友宗麟の息子)は彼らに救援を要請しましたが、兵力に大きな差があったことから元親は味方の加勢を待つように主張します。
一方、秀久は即座の救援を提案。それに存保も乗ったことで元親の意見は受け入れられませんでした。
秀吉も、原則としては救援を待つように指示していたのです。
にもかかわらず秀久が功を焦ったのは、やはり元親との関係性があると思います。
もし、元親の主張を受け入れてスムーズに進軍できれば秀久の面目は丸つぶれです。逆に自身の立案で戦に勝てば、功績は増すばかり。
ここまで順風満帆な生涯を送ってきた秀吉直属の“エリート武将”ならではの増長があったのかもしれません。自信も度が過ぎれば過信に変わるというか……。
ともかく秀久・存保の意見が通り、いざ島津との衝突へ!
【戸次川の戦い(へつぎがわのたたかい)】の始まりです。
鬼門・戸次川ですべてを失う
いざ島津との戦闘を始めた四国軍。
味方の少なさもあって、大苦戦を強いられました。
島津軍が、彼らの代名詞ともいえる【釣り野伏(敵の正面には少ない兵力を残し、油断した相手に左右から襲い掛かる戦法)】を繰り出した際、元親・存保の反対を押し切って強攻した秀久の判断にも問題があったと言われます。
それだけではありません。
味方の陣営が危機的状況に陥ると、なんと戦を強行したはずの秀久が、戦地を脱し、残された部隊が大混乱に陥ったのです。
結局、十河存保と長宗我部信親が討たれるという大失態。
元親は、将来を見込んでいた後継ぎを亡くすという痛手を負ってしまいました。
四国の戦国武将・長宗我部信親の最期「オレは戸次川の戦いで死ぬ」
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秀久の行動は、当然ながら秀吉の逆鱗に触れました。
所領を没収されたうえ高野山に追放されるという、極めて重い処罰が下されたのです。
かくして戸次川の戦いは、秀久の判断によって関わったすべての人が不幸になる後味が悪い合戦となりました。
個人的に「どうしようもない」と言われる戦国武将は擁護したい派の私ですが、このときの秀久ばかりはちょっと擁護が難しいレベル。
ただ前述の通り、そもそも深い因縁がある者同士を組ませた秀吉の「人事責任」も問われなければいけないとは思います。
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