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【仙石秀久】
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秀吉の配下として共に出世を果たし
信長に仕えた秀久は、すぐに豊臣秀吉の配下とされました。
秀吉が大きな出世を果たす前。天下人など夢のまた夢という若い頃の話であり、そのころから従った秀久は最古参の秀吉家臣ということになります。
漫画では、織田信長が浅井長政に裏切られた後の【金ヶ崎の退き口(1570年4月)】で、秀吉や光秀らと共に死地から脱するシーンが、序盤の一つの盛り上がりとなりますが、史実では特に記録は残されておりません。
ただし、直後の【姉川の戦い(1570年)】で戦功を挙げ、天正2年(1574年)に近江国野洲郡(現在の滋賀県野洲市)に1000石の領地を得たことから、地道に戦功を重ねていったことは間違いないでしょう。
以降、信長や秀吉が最も激しく戦った1570~1580年頃については、織田家に関連する年表からざっと推測しますと……。
1570年4月 金ヶ崎の退き口
1570年6月 姉川の戦い
1570年8月 石山本願寺挙兵
1571年9月 比叡山焼き討ち
1572年11月 武田信玄の上洛
1572年12月 三方ヶ原の戦い
1573年7月 足利義昭を追放
1573年8~9月 浅井・朝倉を攻略
1574年1月 長浜城を居城とする
1574年9月 長島一向一揆を全滅
1575年5月 長篠の戦い
1575年8月 越前一向一揆
1576年1月 安土城の築城開始
1576年6月 第一次木津川口の戦い
1577年9月 手取川の戦い
1577年10月 松永久秀の死
1577年10月 中国攻めスタート
1578年3月 上杉謙信が急死
1578年3月 三木合戦
1578年10月 荒木村重が離反
1579年9月 第一次天正伊賀の乱
1580年4月 石山本願寺に実質的勝利
※以下は信長と秀吉のまとめ記事
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御覧の通り、これぞ信長・秀吉のザ・戦国時代!という感じですね。
もちろん仙石秀久が上記すべてに関わったワケではありませんが、次に見える記録は天正6年(1578年)に4000石の加増を受けていることから、秀吉と共に出向いた中国進出の頃にはかなりの武将に成長していたことが見えてきます。
そして天正8年(1580年)には淡路洲本城の城主として5万石の領地を有する大名になったと伝わります。
四国攻略の尖兵隊として
4千石→5万石の昇進スピードを見るに、仙石秀久がトントン拍子で出世していたのは間違いないでしょう。
ただし、この出世を裏付ける史料は『改選仙石家譜』であり、確実にそうだと言える史料はありません。
実際、天正8年時点で洲本城を有したという記述には「早すぎる」という指摘もあり、実態は少々「盛られている」と見たほうがよさそうです。
もちろん、この先も信長や秀吉は攻撃の手を緩めませんから、秀久も働き続けます。
天正9年(1581年)に秀吉は、信長の命を受けて阿波国への攻撃をスタート。淡路ルートを経由して侵攻する【四国攻め】に取り掛かりました。
秀久は黒田官兵衛らと共に参戦し、阿波平定に貢献します。
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そして戦後は、官兵衛と共に洲本城に置かれ、今後の対立が想定される四国勢(長宗我部元親)に対する抑えとしての役割を期待されました。
美濃の国衆出身に過ぎなかった仙石家が、織田家の中枢・羽柴家(豊臣家)内でここまで重用されるようになったのです。
本人も驚きの立身出世だったことでしょう。
しかし……ここで重大事件が勃発します。
【本能寺の変】です。
このとき秀吉が【備中高松城の戦い】で水攻めを行っている最中で、清水宗治の切腹を見届けてから【中国大返し】を強行し、【山崎の戦い】で明智光秀を討ったのはご存知の方も多いでしょう。
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一方、そのころ仙石秀久は、淡路の防御に専心、光秀派勢力の討伐に注力しておりました。
秀久が四国勢に負け、畿内への上陸を許していたら、秀吉が背後を衝かれたかもしれない――それを考えると非常に重要な役割でした。
結果、光秀を討った秀吉は【清須会議】に臨み、信長の有力後継者として名乗りを上げるのです。
同時に柴田勝家との対立も避けられないレベルにまで加熱し、その影響もあってか、秀久もいったん畿内に戻り、来るべき合戦に備えました。
長宗我部相手の四国征伐
柴田勝家vs羽柴秀吉による【賤ヶ岳の戦い】。
秀久は参戦しておりません。
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淡路へ戻って四国勢に睨みを利かせていたのです。洲本城主になったのは、このときがキッカケだったのでは?とも考えられています。
ただし、長宗我部氏との間に起きた【引田の戦い】では敗北を喫しており、長宗我部元親との間にある「因縁」は、このときから始まっています。
その後は、秀吉が着手した四国攻めに参加。
長宗我部の軍勢に対して10万とも言われる大軍が四国へ向けられると、秀久は宇喜多秀家・蜂須賀正勝・黒田官兵衛らとともに2万3000の軍勢で讃岐へ上陸しました。
・伊予
・阿波
・讃岐
三方向から攻められた長宗我部元親はここにあえなく降伏し、四国の覇者だった領地は土佐一国にまで減封されてしまいます。
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一方、その恩恵にあずかったのが秀久で、彼は讃岐国の大半を領有する国持大名にジャンプアップ。
以後は高松城(一説には聖通寺山城とも)に入り、いまだ敵愾心旺盛な島津氏に睨みを利かせる存在となりました。
こうして見ていくと、秀久の出世は極めて順風満帆。
古参の家臣であるという点を割り引いても、名族ではない生まれでここまで来れたのは、秀吉の功績に大きく貢献していたと考えるべきでしょう。
秀久は、漫画『センゴク』でもそうであるように、どんな場面でも基本的に最前線で体を張る役割を任され、内政よりも武勇型の人物であったことも想像がつきます。
当然、当人にもその自負はあったでしょう。
しかし、皮肉にもこの「自信」が、自身と長宗我部の未来に影を落とす「あの戦」につながったのではないでしょうか……。
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