こちらは4ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【仙石秀久】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
小田原攻めを期に復権し、小諸城主に
高野山に追放された秀久は、すぐに謹慎が解けることもなく苦難の日々を過ごしました。
再起のチャンスがやってきたのは戸次川の戦いから約4年後。
天正18年(1590年)に豊臣秀吉が関東の北条氏へ攻め込んだ【小田原征伐】が勃発すると、秀久はかつての家臣たちを集めて秀吉のもとへと参上しました。
小田原征伐で秀吉相手に退かず!北条家の小田原城はどんだけ強いのか
続きを見る
このときは徳川家康のとりなしもあって出仕を許され、持ち前の武勇を生かして戦場でも活躍したと伝わります。
戦後にはかつての罪を許され、旧領回復とならなかったものの信濃国小諸の地に5万石の領地を与えられました。
秀吉としても、最古参の秀久に対して懐かしく愛しい気持ちがあったのでしょう。
戸次川の戦いでの失態を考えると、5万石というのはいささか大盤振る舞いな気もします。
単に懐かしさとかだけではなく、信頼できる部下が一人でも多く欲しかったというのもあるのかもしれません。
その後の秀久は、主に城の普請工事で活躍し、文禄・慶長の役に拠点となる名護屋城、秀吉隠居後の住まいになった伏見城の築城に貢献します。
なお、この伏見城築城に際して「天下の大泥棒」と呼ばれた石川五右衛門を捉えたという伝説が残されています。
もちろんこれは単なる伝説に過ぎないのですが、秀久という人物が「大泥棒を捉えられるほどの武勇を誇る人物」として認識されていた可能性を示しており、やはり軍事的なセンスは確かなものがあったのでしょう。
実在した戦国時代の大泥棒・石川五右衛門~なぜ釜茹で極刑に処されたのか?
続きを見る
家康に接近し秀忠をかばう役目も
しかし秀吉の死後は、秀久も戦国武将らしい行動に出ます。
豊臣方につくのではなく、先の縁もあってか徳川家康に急接近。
関ヶ原の戦いでは小諸城主として、上田城に拠点を置いた真田昌幸・真田信繁親子の備えとして機能しました。
また、彼らとの戦に苦しんだ徳川秀忠隊の殿軍も務め、関ヶ原の遅参で激怒された秀忠の擁護も担当したと言われます。
こうした事情から特に秀忠に気に入られ、彼が将軍になると外様大名ながら譜代大名に近い境遇で重用されたといいます。
初代信濃小諸藩主に位置づけられた秀久は城の整備などを行い、慶長19年(1614年)5月6日に生涯を終えました。
享年64。
徳川家康はなぜ天下人になれたのか?人質時代から荒波に揉まれた生涯75年
続きを見る
なぜ徳川秀忠が二代目将軍に選ばれたのか 関ヶ原の遅刻は問題なし?
続きを見る
戸次川さえなければ
秀久の生涯を振り返ってみると、やはり「戸次川さえなければ…」と言いたくなってしまいます。
秀吉最古参の家臣として武勇に優れていたことはもちろん、大名復帰後の時流を読む力には確かなものがありました。
しかし、戸次川での失態はあまりにも大きく、現代に至るまでほとんど注目されない戦国武将であったのです。
そんな不遇な状況を一変させたのが漫画『センゴク』ですね。
いくら失敗しても挫けない――。
不屈でありながらユーモラスな人物像として描かれた秀久は非常に魅力的であり、今なお同漫画は戦国ファンを喜ばせています。
ただ残念なことに、史実面から細かい考察を加えた『仙石秀久人物伝』の書籍がありません。
史料の量からして難しいのかもしれませんが、歴史出版社の皆様にはぜひともテーマに選んで欲しい。
そんなミステリアスな仙石秀久であります。
あわせて読みたい関連記事
斎藤道三は如何にして成り上がったか? マムシと呼ばれた戦国大名63年の生涯
続きを見る
父のマムシ(道三)を殺した斎藤義龍~信長の美濃攻略を阻止した33年の生涯とは
続きを見る
斎藤龍興は信長に国を追われてネチネチ反撃~道三の孫は一体どんな武将だった?
続きを見る
織田信長の天下統一はやはりケタ違い!生誕から本能寺までの生涯49年を振り返る
続きを見る
豊臣秀吉のド派手すぎる逸話はドコまで本当か~検証しながら振り返る生涯62年
続きを見る
信長を裏切り滅ぼされた浅井長政 29年の儚き生涯 その血は皇室へと続いた
続きを見る
文:とーじん
【参考文献】
『改選仙石家譜』
『日本大百科全書(ニッポニカ)』
『国史大辞典』
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon)
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon)
歴史群像編集部『戦国時代人物事典』(→amazon)
WEB歴史街道「戸次川の戦い~長宗我部元親・信親の無念」(→link)