万治元年(1658年)8月18日は、豊臣完子(さだこ)が亡くなった日です。
苗字からすると、一瞬『豊臣秀吉に娘なんていたっけ?』と思ってしまいますが、彼女は秀吉の子供や養女ではありません。
大姪(兄弟姉妹の孫・ここでは秀吉の姉の孫)にあたります。
ややこしいので、まずは系図から見ておきますと……。
完子の父親は豊臣秀勝で、母親がお江与。
豊臣秀勝は、豊臣秀吉の姉・とも(日秀尼)の子ですから秀吉の甥っ子ですね。
一方、お江与とは、徳川秀忠の妻となるお江与であり、浅井三姉妹・江(ごう)の表記で親しまれているかもしれません。
要は、
の血が混ざった、なかなか複雑な立ち位置の女性ですね。
そんな彼女は一体どんな生涯を送ったのでしょうか。
※以下は豊臣秀吉の関連記事となります
豊臣秀吉のド派手すぎる逸話はドコまで本当か~検証しながら振り返る生涯62年
続きを見る
お好きな項目に飛べる目次
豊臣完子にとっての「母」は淀殿だった?
完子は、文禄元年(1592年)生まれ。
三歳のときに江(お江与)が徳川秀忠に嫁いだため、以降、母とは離れて育ちます。
なぜ徳川秀忠が二代目将軍に選ばれたのか 関ヶ原の遅刻は問題なし?
続きを見る
なんせ嫁ぎ先が徳川家のトップであり、そこへ豊臣の血を引く娘を連れていくわけにもいかず、結局、完子は伯母である淀殿に預けられました。
おそらく、完子にとっての「母」とは淀殿だったでしょう。
淀殿に娘がいないこともあってか。
姪っ子の完子は随分と可愛がられ、12歳で公家・九条幸家に嫁いだときも、京の人々が珍しがるほど盛大な支度を整えてやったといいます。
もちろん、お江与も娘のことを愛していました。
離ればなれになるとき、自分の侍女の1人である”いと”を完子につけていったとされています。
いとがどんな人物だったかは不明ですが、おそらく相当信頼され、場合によっては完子の母親・姉代わりになれるような女性だったのでしょう。
物心がつくかつかないかの娘を任せるのですから、実母としては辛い決断だったに違いありません。
夫の九条幸家は武家との繋がりを持てるように
九条家に嫁いだおかげで、慶長二十年(1615年)に豊臣家が滅亡したとき、完子にお咎めはありませんでした。
しかし、母代わりだった淀殿の最期を聞かされるワケですから、心労のキツさは極みだったでしょう……。
以降の完子は、母の三人目の夫・徳川秀忠の養女という立場になります。
そのおかげで、自らの夫・九条幸家は、朝廷の中で武家(徳川家)との繋がりを強く持てることになりました。
秀忠の娘であり、完子の義理の妹でもある和子が後陽成天皇に嫁いだときも、幸家が仲介役の一人になったとか。
2人は夫婦仲も良かったようで、四男三女にめぐまれています。
一人だけ19歳で亡くなった娘がいますが、他の子供は無事に成長。多産ぶりは母に似たという面もあるでしょうね。
完子自身は秀吉から直接の血こそ引いておりませんが、姉を通じて「豊臣家」の人間の血を女系で続いたことになります。
完子の子孫の一人が貞明皇后ですので、皇室にもその血は流れているといえますね。
貞明皇后(大正天皇の皇后)と皇室を支えた近代皇后たち その功績とは?
続きを見る
※続きは【次のページへ】をclick!