復元された平野の御土居

豊臣家 豊臣兄弟

秀吉が京都を守るために築いた「御土居」総長23kmにも及ぶ異例の大事業だった

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城郭都市の代わりに総構え

とにかく京都が戦乱に巻き込まなければよい――。

平安末期までは、そのための様々な政治的工夫が実行されてきましたが、鎌倉時代となり、武士が台頭して【承久の乱】が発生すると、どうにもならなくなってしまいます。

鎌倉武士がまさか都にまで雪崩れ込んでくるとは思っていなかったような後鳥羽院の陣営。

京都側の防衛施設は、天然の要害といえる宇治川ぐらいしかなく、高い壁で敵の侵入を防ぐような軍事施設はありませんでした。

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こうした状況は、実は鎌倉も同じでした。鎌倉は街自体が海と山に囲まれ、防衛に有利な地形とされておりますが、構造的な弱点はあります。

結局、都市防衛という観点からすると、日本は脆弱だったのです。

もしも日本人が【郭】を絶対に必要とするならば、おそらく数多く築かれていたことでしょう。

逆に、必要がなかったからこそ根付いていない。

代わりに用いられたのが、堀や土塁を組み合わせた【総構え】です。

時代がくだり江戸時代の後期にもなると、日本は西洋の技術を学び、【郭】を備えた軍事施設を作りました。

対ロシア防衛を意識した建築物には【郭】と名がついています。

代表例が【五稜郭】ですね。

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そんな歴史の中で儚く生まれ、そして忘れられてしまったのが御土居なのです。

 


人海戦術、突貫工事で作られるが

御土居はなぜ作られたのか?

以下のような理由が考えられます。

・洛中の範囲を決める

・治安と防衛に役立てる

・川の氾濫に備え、堤防として利用する

前田玄以が指揮を執って作られた御土居。

その手順は、土を掘り起こし、廃材となった石も再利用し、盛った土には竹を植えて補強されました。

なにせ短期間の突貫工事です。

関門に合わせて作られ、非常時には門を閉ざすこととされました。

急いで作ったためか、なかなか曲がりくねった不思議な構造をしていますし、高さも場所によりかなり異なります。

御土居は、本来の目的とは合致していない、効果がわかりかねる特徴も見られるのです。

しかも、計測された最古の図面にせよ、古いものでも建造後半世紀ほど経たものまでしか辿れません。

秀吉の構築当時から50年ほど経たものであり、作られた当初のものとはいいかねます。

目的も構造も、何もかもがわかりにくい。

それが御土居なのです。

豊臣秀吉の都市建設は大坂へと移り、その豊臣政権も短命に終わるため、ますますわかりにくくなるのでした。

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