天正10年(1582年)6月27日は清洲会議が行われた日です。
信長亡き後の織田家は誰が家督を継ぐか?
信長の息子である織田信雄と織田信孝が、跡目を巡って火花を散らしていたところ、三法師を担いだ豊臣秀吉がひょっこり現れ、
「信長様の孫が織田家の跡取りとなるのが筋じゃろ 笑」
と、ウルトラCを繰り出し、他の勢力を制してゆく――そんなエピソードがよく知られますが、これはあくまで後世の創作。
秀吉が天下人になったことから逆算された話がよく出来ていたことから広まったものです。
では、清洲会議とは一体どんな内容で、その後の織田家はいかにして推移していったか?
まずは清洲会議に至る前夜(本能寺の変)からの状況をまとめてゆきましょう。

『絵本太閤記』に描かれた清洲会議のシーンに着色/wikipediaより引用
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継承順位が半端な時代に起きた問題
天正10年(1582年)6月2日未明、織田信長が本能寺で明智光秀に討たれました。
信長の弟である織田長益(有楽斎)は死地からの脱出に成功しましたが、信長の嫡子である織田信忠は同日に敗死。
織田家は、二人の柱石を一瞬にして失うという、驚天動地の事態に遭遇しました。

織田信長(左)と織田信忠/wikipediaより引用
もし仮に、信忠が生き延びていたら?
その後の織田家の在り方もそう複雑にはならなかったでしょうし、秀吉の豊臣政権は無かった可能性も考えられます。
というのも、本能寺の変が起きる前に「信長から信忠へ」すでに家督は譲られており、たとえ信長が死んでも、生き残った信忠が織田家を率いれば何も問題なかったのです。
逆に言えば、信長と信忠を同時に討ち取るチャンスがあったからこそ、光秀も凶行に及んだと言えるのかもしれません。

明智光秀/wikipediaより引用
その点、後の天下人である徳川家康は抜け目がないと申しましょうか。
嫡子の徳川秀忠と自身は別行動を取るようにしています。
【関ヶ原の戦い】でも秀忠は別働隊。
父子が同時に行動するリスクを排除していたのです。
あくまで仮の話ですが、もしも本能寺の変が起きた時代が古代と同じ状況でしたら、生き残った信長の弟(織田有楽斎など)が後継者になってもおかしくはありません。

織田有楽斎/wikipediaより引用
古代日本では父子だけでなく、兄から弟への継承もよくありました。
逆に、時計の針を進めて江戸時代で考えるならば、最初から三法師で迷う必要はない。
すでに家督は息子の織田信忠に譲られていて、三法師はその信忠の息子ですから、正統性という点においては問題ありません。
しかし、乱世だけに話はそう簡単にはいかず、わざわざ清洲会議という場を設けなければならないのでした。
清洲会議直前 微妙なパワーバランス
天正8年(1580年)生まれとされる三法師。
本能寺の変が起きた時点では、数え年でまだわずか3才です。

三法師は後に、成長して織田秀信となる/wikipediaより引用
当然、誰かが支える必要があり、その背後に名実共に実力を備えた織田家臣たちが浮かんできます。
それが以下の通り。
柴田勝家:織田家随一の宿老
丹羽長秀:織田家の実務を担う
滝川一益:織田家にて東国の押さえを担当
池田恒興:織田信長の乳兄弟
徳川家康:織田信長の忠実な同盟者
羽柴秀吉:西国からの帰還を果たして明智光秀を打ち破った
農民とも足軽ともされる出自の秀吉が、本来、この場でリードを奪えるわけはありません。
圧倒的に立場は弱い。
しかし【山崎の戦い】で明智光秀を打ち破ったことで状況は非常に微妙になっていました。

豊臣秀吉/wikipediaより引用
信長が敗死したときには四国にいた織田信孝もすぐさま引き返し、秀吉と合流できています。
一方、遅れを取ったのが織田信雄です。
そして実はもう一人、後継者になれなくもない信長の四男もいました。秀吉が養子としていた羽柴秀勝です。
男子のない秀吉は、夭折した男児と同じ名をつけ、信長の四男を育てていたのです。
そんな状況のもとで開かれたのが清洲会議となります。
清洲城に集まった織田家臣たち
天正10年(1582年)6月27日、清洲城に以下の織田家臣たちが集まりました。
柴田勝家
丹羽長秀
池田恒興
羽柴秀吉
滝川一益→参加できず
徳川家康→参加できず
柴田、丹羽、池田が待っているところへ、三法師を肩に抱いた秀吉が颯爽と現れ
一同「してやられた!」
と三人が悔やんでも後の祭り、信孝を推していた勝家は歯噛みする――というのは前述の通り創作ありきの話で、主に江戸時代の『太閤記』の名場面として登場しています。

柴田勝家(左)と織田信孝/wikipediaより引用
柴田勝家が織田信孝を推していたというのも、結果から逆算した創作であり、まとめるとこうなります。
◆創作上の清洲会議
・信長の後継者を決める会議である
・柴田勝家は織田信孝を推す
・しかし、秀吉はなんと三法師を推し、抱き抱えて登場して皆の度肝を抜く
・秀吉のリード確定!
さすが現代でも映画になるほど盛り上がるイベントだけあって、非常によく出来た話です。
思わず信じたくなりますが、上記の流れはいったん忘れて考えてゆきましょう。
いったい清洲会議とは、何を話し合う場であったのか?
後継者ではなく「名代」の争い
清洲会議とは、何のために開かれたのか。
というと、まだ幼い「三法師の名代」をめぐる争いでした。
織田信雄と織田信孝――二人の信長の息子のうち、どちらが三法師成人までの名代をつとめるか――そこが焦点だったのです。
この時点で、前述した羽柴秀勝(信長の四男で秀吉の養子)は除外、あくまで二者に絞られていました。
重ねて申し上げますと、清洲会議とは、柴田勝家・丹羽長秀・池田恒興・羽柴秀吉の四者ではなく、織田信雄と織田信孝の二者を決めるもの。
◆清洲会議の本質
→織田信雄と織田信孝による三法師の名代争い
しかし、現実問題、この兄弟間は力が拮抗していて、話が一向にまとまりません。

織田信雄(右)と織田信孝/wikipediaより引用
そこで柴田勝家・丹羽長秀・池田恒興・羽柴秀吉の四者が割って入り、政務を執ることにします。
具体的には、三法師を守る者を堀秀政と決め、残された織田領を兄弟の納得いくように分配することが会議の内容となったのです。
しかし、この状況に我慢できなくなったのが信孝でした。
信孝は三法師を安土に戻さず抱え込もうとし、さらには統治を巡って秀吉と折り合いがつかず決裂――その結果、信孝は柴田勝家と結びついてゆきます。
創作上の清洲会議では、最初から信孝と勝家が手を組んでいたように見せますが、実際は順序が逆です。
こうした創作を排除し、あらためて史実の清洲会議を整理してみるとこうなります。
◆史実の清洲会議
・織田家(信長と信忠)の後継者である三法師の名代を巡る争い
・名代を争っていたのは信長の息子たち織田信雄と織田信孝
・織田信孝と柴田勝家は後に手を組んだ
確かに「秀吉が三法師を抱きかかえて登場した」なんて、いかにも面白い話ですし、その後、秀吉が天下人になることから、この時点で何かリードしたようにも捉えたくなるかもしれません。
しかし、しつこいようですが、史実から逆算した創作であり、この時点で秀吉がリードしたなんてことはありません。
では、その後はどんな風に推移していったのか?
豊臣政権下での三法師や織田家は?
清洲会議の後に、秀吉と対立することになった織田信孝は、前述の通り柴田勝家と結びつきます。
信孝は、信長の妹であり、浅井長政と死別したお市の方と勝家を結婚させました。

喜多川歌麿の描いた柴田勝家とお市の方/wikipediaより引用
お市の方に秀吉が惚れていたという発想も、あくまでフィクションです。
ともかく、乱世においてここまで対立が深くなると、政治外交だけでどうにかなるものではなく、秀吉は、勝家と信孝の両者を武力で破る必要が出てきました。
その結果が【賤ヶ岳の戦い】であり、秀吉が勝利したのはよく知られた話です。
一方、取り残された織田信雄は徳川家康と組み、秀吉に対抗しようとします。
そこで起きたのが【小牧・長久手の戦い】であり、この戦いにおいて秀吉は、決定的に両者を打ち破ることはできません。
交渉力を駆使して信雄を降すものの、家康は頑強に抵抗。
どうにかして傘下に入れたい秀吉は、妹の旭を家康の妻として差し出し、さらには母の大政所を遣わすといった手筈を整え、ようやく家康を従属させています。
では三法師はどうなったのか?
というと、織田秀信として元服した後に羽柴姓を与えられています。
秀吉はさらに、お市の方の遺児である浅井三姉妹を庇護し、その長女である茶々を妻としました。

淀殿/wikipediaより引用
この茶々が男児を産むと、織田の血縁者は秀吉の血縁者として扱われるようになります。
冷遇されていないとはいえ、織田家は天下人からは遠い立ち位置へ埋没させられているのですね。
なぜ清洲会議は盛り上げられたのか
こうして秀吉視点から清洲会議を見ると、あくまで通過点に過ぎず、会議そのものが過大評価されているとも思えてきます。
劇的かつ、見栄えが良いので、フィクションとして使い勝手が良かったため、世の中に広まったのでしょう。
三法師を抱き抱えた秀吉は、様々な絵画の題材となりました。
そんな中で異色ともいえるのが、幕末最後の絵師とされる月岡芳年の作『魁題百撰相 羽柴太閣豊臣秀吉公』です。
現代人からすれば秀吉に美形という印象はないかもしれませんが、江戸時代のフィクションとなると見栄えする外見とされます。
三法師を抱く秀吉像ともなれば、役者のように目鼻立ちの整った姿で描かれます。

月岡芳年『魁題百撰相 羽柴太閣豊臣秀吉公』
この作品もその定番のようで、興味深いのは詞書に「千形瓢(せんなりひさご)の馬印を東国北国に輝かす」とあること(左上)。
秀吉はまず柴田勝家や徳川家康と戦い、関東や東北は後回しです。
ならばなぜ「東国北国に輝かす」などと書かれているのか?
実はこの一枚は、秀吉ではなく、明治天皇を担ぎ上げた薩長を描いているという見立てもできるのです。
西国の雄である秀吉の再来が、幼主を担ぎ上げて迫っている――江戸の絵師である月岡芳年はそう描き、江戸っ子たちもその絵を買い漁りました。
東西の目線の違いを感じます。
西からの脅威が生々しくなってきた江戸っ子にとって、秀吉は愛すべき英雄ではなく、おそるべき姦雄に変貌しつつあったのかもしれません。
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【参考文献】
渡邉大門『清洲会議』(→amazon)
渡邉大門編『秀吉襲来』(→amazon)
本郷和人『日本史のツボ』(→amazon)
本郷和人『日本史を疑え』(→amazon)
本郷和人『日本史の法則』(→amazon)
小和田哲男『秀吉の天下統一戦争』(→amazon)
小池満紀子/大内瑞恵『月岡芳年 魁題百撰相 (謎解き浮世絵叢書)』(→amazon)
他





