絵・富永商太

合戦

姉川の戦いが雌雄を決する大戦にならなかった意外な理由【戦国野戦譚】

戦国ファン、特に信長のことが好きな方は【姉川の戦い】をよくご存知でしょう。

朝倉義景を討つべく越前に出兵した織田信長が、突如、背後にいた浅井長政に裏切られ、命からがら京都→岐阜へと帰還。

その後スグに軍勢を整え、近江の姉川で浅井・朝倉連合軍と戦った元亀元年(1570年)の野戦です。

兵数は諸説あり、
・織田23,000
・徳川6,000
vs
・浅井8,000
・朝倉10,000~15,000
という規模でした。

しかし……。
少し不思議に思いませんか?

両軍それぞれこれだけの大軍で正面からぶつかっておきながら、思ったほどには決着はつかず、その後もずっと戦いは続いてます。

姉川の戦い:元亀元年(1570年)

朝倉・浅井の滅亡:天正元年(1573年)

上記の間に志賀の陣宇佐山城の戦い)があったり、比叡山焼き討ちがあったり、あるいは本願寺の蜂起や長島一向一揆など、関連する戦闘を数えればキリがないほど勢力争いを続けており、だからこそふと思ってしまうことがあります。

いったい【姉川の戦い】とはなんだったのか?

本日は、戦闘そのものや、その背景も併せて見て参りましょう。

 

なぜ裏切られ、姉川の戦いが勃発したか

織田家と浅井朝倉両軍との因縁を考える上で真っ先に気になること。

それは「なぜ浅井は信長を裏切ったのか?」ということでしょう。

ざっくりと言えば、浅井が国衆の連合体であり、長政一人の意思ではどうにもならなかったということであり、強固な主君体制を敷いていた信長は、その辺の判断を見誤ったのかもしれません。
詳細は以下の記事に譲り、

信長が浅井に裏切られた理由が超スッキリ!近江の複雑な事情とは

こ ...

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本稿では、信長の攻城戦とからめて姉川の戦いを見て参りたいと思います。

攻城戦と言うと、
『城は関係ないでしょ?』
なんて反応が必ず返ってきますが、むしろ逆です。

領地を治めるにせよ(政治面)、兵を動員するにせよ(軍事面)。

戦国時代の基本は、あくまで拠点(城)。
その奪い合いがあくまで主であり、戦い方が攻城戦になるのか、姉川の戦いのように野戦になるのか、それはその時々の力関係や情勢にもよります。

今回の場合、織田信長の視点から見ていくと次のような流れになります。

【姉川の戦いに至るまでの織田軍の動き】

美濃を制する(岐阜城を確保)

京都へ上洛(足利義昭の将軍就任)

朝倉攻め(天筒山城・金ヶ崎城まで陥落)

浅井家の裏切り(挟撃に遭う)

金ヶ崎の退き口豊臣秀吉らによる撤退戦)

姉川の戦い

実は信長は、浅井家に裏切られたあと、スグにでも戦わなければならない理由がありました。

 

岐阜城と二条城を結ぶルートは絶対!

織田家が浅井と戦わなければならなかった理由。
それは第一に【岐阜城と二条城を結ぶルート】の確保です。

それもただの連絡路ではいけません。

将軍・足利義昭も、ようやく自前の家臣団と軍事力を持ち始めたとはいえ、まだまだ非力であり、織田家の軍事力は必須。
巨大な軍事力が背景にあってこその強い権威と外交力は保たれます。

そして何かあったら常に織田軍団が畿内に駆けつけるぞ、という安全保障があってこそ、織田家と足利将軍家による畿内支配、すなわち天下布武は成り立ちます。

そのため岐阜城と二条城を結ぶルートは、素早い進軍が可能かつ安全な軍用道路でなくてはなりません。

美濃から京へ至る道は、信長が金ヶ崎から逃げ帰った千草峠越えなど複数ありますが、やはり重要なのは美濃から関ヶ原を抜けて琵琶湖沿いに南下して南近江から上洛するルートです。
ここで以下の地図をご覧ください。

お城野郎ワンダーキャッスルジャパン20151208-1

©2015Google,ZENRIN

赤が織田勢力下の城で、青が浅井方。
裏切りで美濃―京都間は分断されてしまいました。

京都側から見て、
【二条城-宇佐山城-長原城-長光寺城-旧安土城】
あたりまでは織田家の重臣を各地に置いて保持していますが、岐阜城から旧安土城までを安定させなければなりません。

細かいことを申しますと、石部城や鯰江城にも六角義賢、六角義治父子が潜んでおり、ゲリラ戦の根城となっておりました。

佐久間信盛柴田勝家らの奮闘で、それら南近江ゲリラは押さえつけておりましたが、観音寺城の北、愛知川の先の佐和山城や横山城は浅井家が支配しており、南近江から岐阜城へ至る軍用道路はここで完全に断たれています。

ということで、信長なによりのミッションは、まず京への進軍ルートを回復することでした。

ここから長く続く浅井・朝倉連合軍との戦いは、裏切りへの報復や恨みというアウトレイジな理由よりも、畿内を勢力圏に置く天下布武の運営上、必要な措置なのです。

 

琵琶湖利権は絶対に譲れない浅井家

次に裏切り後の浅井家の戦略をみてみましょう。

浅井家の方針は基本的には変わりません。
北近江と琵琶湖の経営を維持することです。北近江以外への領土拡大の意図はありません。

しかし領土内への織田家の軍事侵攻は絶対に許せない。

ここで浅井家の北近江を取り巻く地政学について少し詳しく見ておきましょう。

琵琶湖東岸の小谷城を本拠地に、北部は北国街道で越前に繋がり、南部は琵琶湖沿いに南下して南近江に繋がります。
途中で東山道が東へ分岐して、これが美濃へとつながります。

東部は軍の進軍が不可能な山岳地帯で、唯一、関ヶ原経由の隘路で美濃に至ります。西部は広大な琵琶湖が広がります。

浅井家の地理的特徴として、とにかくこの【琵琶湖が重要】。

関西圏への単なる水瓶だと侮ってはいけません。
琵琶湖は莫大なカネも生むのです。

琵琶湖の水運は、敦賀と京、大坂を結ぶ巨大な商業利権を形成しており、堅田衆などの水運や漁業権を担った湖族を生み出しました。

浅井家はこの湖族の権利を保証し、彼らの信仰の中心でもある竹生島信仰の最大の後援者となることによって、味方に付けて琵琶湖全体をゆる~く支配しておりました。

つまり浅井家の支配圏は琵琶湖そのものに加えて、琵琶湖の西岸や南岸各地の港町も浅井の勢力圏と考えなくてはなりません。

琵琶湖にへばりつくように細長くつながる土地だけが浅井家の領地ではないのです。
西部は琵琶湖を含む比叡山の麓が国境であり浅井家の勢力圏なのです。

 

延暦寺とも関係良好だった浅井家

では、西部で隣り合う比叡山との関係はどうでしょうか。

古来より近江には寺院の荘園領地が各地に散らばっていました。もちろん比叡山延暦寺の寺社領もあります。

寺社領には代官が置かれます。
代官が独立して戦国領主となることもありますが、延暦寺の寺社領は直接支配により厳格に管理されていました。

そのような寺社領が散らばる近江でも、浅井家は彼らの土地を奪うのではなく、所有を保証することで北近江の支配権を確立してきました。

『じゃあ浅井家なんていらないじゃん?』

と思いますが、国衆同士で土地の境目争いが起こっても、戦国時代には裁判所もなければ奉行所もありません。
もはや機能していない守護に相談しても解決能力はゼロですし、京に出向いて将軍にお伺いを立てたって同じく解決されません。

そんなとき公明正大にジャッジできて地元の事情にも詳しい人物がいると話が早いわけです。

それが浅井家の存在意義です。

浅井家がトップダウンの組織ではなく北近江の国人衆の連合組織なのはそういう理由です。
そのようなゆる~い支配で浅井家は北近江の支配権を保ってきたので、延暦寺との関係も良好なのです。

つまり浅井家は、北部の越前や若狭方面は盟友の朝倉家、西部は延暦寺と友好関係にあり、美濃方面から織田方が侵入されてかき回されるのは百害あって一利なしなのです。

その際、美濃からの侵入を防ぐためにあったのが横山城。
また佐和山城を対南近江の最前線の城として、織田方の諸城を陥落させるのが、浅井にとっての戦略となります。

【浅井家の戦略】
・東(岐阜城)からの侵入を防ぐ
・南近江の織田方諸城を落とす

信長の戦略ばかりに注目していると、浅井長政が何もやってないかのような印象を受けるかもしれませんが、そんなワケありません。

浅井家は、南近江の国人衆や寺社勢力に対しても権利を保証することで次々と味方にしていきます。
かつては浅井家の天敵であり、織田家に対してゲリラ活動を展開する六角家すらも「敵の敵は理論」で味方にします。

長々と書きましたが、もうお気づきでしょう。
浅井家はこの時点で決して孤立していたわけではありません。

織田家を裏切った理由も感情的なものではなくて、勝算あっての裏切りだったのです。

 

美濃からの侵入を防ぐ刈安尾城と長比城

浅井家は美濃方面からの後詰めルートを遮断するためにいち早く動きました。

交通の要衝「関ヶ原」を抜ける伊吹山周辺の防衛のために「刈安尾城(かりやすおじょう)」と「長比城(たけくらべじょう)」を築城。
これらは朝倉家による築城と云われています。

以下の地図をご覧ください。

お城野郎ワンダーキャッスルジャパン20151208-22

浅井家の北近江防衛戦略。この築城位置は果たして正解だっだのか!?/©2015Google,ZENRIN

右側(東)の美濃から、左側(西)の近江へ抜けようとすると、山岳の合間で道が狭くなり、そのすぐ先に刈安尾城と長比城がご確認できるでしょう。

刈安尾城は北近江守護・京極高清の居館「上平寺館」の詰めの城があったところで、関ヶ原方面まで見渡せる場所に位置しています。
ここで美濃から北国街道へ出る道を封鎖しましました。

一方、長比城は美濃から京へ向かう東山道を封鎖します。
そして織田家と同盟していた頃には小谷城と佐和山城のつなぎの城でしかなかった「横山城」を改修して北近江~美濃国境にフタをしたのです。

仮に、このフタが破られても、背後の鎌刃城と佐和山城で待ち構え、その後詰めとして本城の小谷城から軍勢を繰り出して南下する織田方の背後を襲うことが可能です。

囲碁や将棋のように考えれば、まさに盤石の守備体制です。

 

敵に攻撃する意思を見せつけなければ機能しない

これだけ強固な防御に対し、織田軍はどうすればよいか?

小谷城と佐和山城を結ぶ縦のライン上に出てこなければ、京へ進軍するどころか、南近江に近づくことすらできません。

まさに八方塞がり。
このように浅井家は、関ヶ原周辺を二つの陣城と横山城で危険なデルタ地帯を造り、待ち構えていたのです。

一見すると完璧な守りにも見えますね。

しかし、この浅井家の防衛戦略が間違いだったことがすぐに露呈します。

実は軍事的に攻め寄せる敵に対し、自領に城を構えて待ち受ける戦略は良策ではありません。

どこがまずい戦略なん?と思われるかもしれませんが、自領に城を構えるということは、

【これ以上先に進みません・絶対にこちらから攻めません】

と宣言するようなものです。

仮に両軍が同盟中であればそれでもよいでしょう(そうであれば城は構えませんが)。

しかし今は交戦中。
自分から「攻めてやる!!!」という強固な意図を見せつけることは非常に重要です。

例えば、織田信長が美濃の斎藤家を攻めるとき、危険を冒して何度も木曽川の向こうに橋頭堡を築こうとしたり、あるいは武田信玄があえて敵地に旭山城や海津城を築いて領有を既成事実化したように、【自領外でのアクション】が必要なのです。

仮に、領土的野心がなく防衛に徹する場合でも、上杉謙信のように最前線を越えて敵領内へ侵入して敵陣を破壊し、【進攻の代償が高くつくこと】を見せつけることが重要。

なぜなら相手に反撃の意志なしと分かれば侵攻にのみ専念でき、攻めの戦略だけを立てればよくなるからです。
その方が、圧倒的に戦いやすいのは自明の理でありましょう。

浅井長政は、たとえ防衛が主目的でも、「美濃へ攻め込むぞ!」という意思を見せつけなければならなかったんですね。

 

誰得?と問われれば朝倉家得!

本気で自領を守りたいのであれば、最前線の城は鉄壁の防御ではなく「攻めの城」でなくてはなりません。

例えるなら、分厚いコンクリートで固めた要塞ではなく、空母やイージス艦の機能を有している必要がある。

信長が稲葉山城攻略に手こずったのも、同城がイージス艦のように機能して、再三の信長の侵攻を、稲葉山城のはるか手前で防ぐことがてきたでした(以下の記事に詳細あります)。

稲葉山城(後の岐阜城)を信長はどう攻略したか? その全貌を解説!

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しかしせっかくのイージス艦機能があっても、運用する者次第でいくらでも変わります。
稲葉山城の場合、斎藤道三斎藤義龍らは運用できても、その次代・斎藤龍興には荷が重過ぎました。

ゆえに信長に落とされたのです。

では、浅井家はどうでしょうか。

智謀に優れる浅井久政と戦上手の浅井長政。
そんな最高の運用者がおりながら、浅井家は美濃との国境を分厚いコンクリートで固めてしまいました。

実は、長政の祖父・浅井亮政の時代は、当時、新興だった美濃斉藤家に対して度々国境を越えて軍勢を繰り出しておりました。

そうやって北近江の国境を美濃勢から守ってきたんですね。
そんな先例があったにも関わらず、今回は国境の手前を固めるという誤った戦略をとってしまいました。

もっとも刈安尾城と長比城は越前衆による築城との記録に従えば、浅井家にとっては愚策でも、朝倉家にとってはベストな選択です。
朝倉家にとっては、北近江そのものが越前防衛の緩衝地帯であり、そこを織田家との決戦の場に設定すれば、少なくとも越前には戦乱のトラブルは及ばないからです。

浅井長政はこの朝倉家中心の戦略に気づいていたのか。
あるいは反対したかったがゴリ押しで築城されたのか。
もしくは全く理解できずにお人好しにも築城を承知したのか。

詳細は不明ですが、両城の築城が「誰得?」と問われれば、間髪入れずに「朝倉家得!」と答えられる築城位置なのです。

いずれにせよこの防衛戦略を見る限り、信長が長政を小心者呼ばわりした人物評価は的を射ていたと思います。

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信長に衝かれた浅井家第二の失策とは

それでは浅井長政にとってベストな選択は何だったのでしょうか。

亮政時代の戦略を踏襲すれば、信長が金ヶ崎から岐阜城にたどり着く前に美濃に侵入し、大垣あたりまで西美濃を荒らしまくるか、長政自ら全軍を率いて関ヶ原の隘路で待ち構え、決戦に持ち込むべきでした。

信長は必ず京への進軍ルートの確保に出てきます。相手の出方が分かっていることほど戦略が立てやすいことはありません。

個々の戦闘力では決して負けてはいない北近江兵ですが、織田信長の動員兵力(尾張、美濃、伊勢、援軍の徳川家)を考えると数で劣ることは明らかです。

少ない兵力が大軍を相手にするときは、相手に包囲されないことが最も重要です。
包囲されないためには相手が留守の時に攻勢に出つつ、後退して関ヶ原付近の隘路で待ち構えるべきで、自領に引きこもるだけで何もしないのは最も拙い選択です。

実際、そういう動きになっていきます。

長政が攻勢に出てこない――。
それを理解した信長は、京に向けて全力で侵攻するのでした。

そして信長は浅井家の第二の失策をつきます。それは……。
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