姉川の戦い

浅井長政(左)と織田信長が衝突/wikipediaより引用

織田家 浅井・朝倉家

「姉川の戦い」織田徳川vs浅井朝倉の決戦は実質引き分けだった?

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なんせ3代将軍・徳川家光のおじいちゃん徳川家康と、母・江の実家の浅井家、そして母方のおばあちゃん・お市の実家の織田家が入り乱れて戦ったとあれば、徳川の時代ではこれほどの豪華キャスティングを見逃すことはできないでしょう。

要は徳川のための合戦描写なんですね。

また姉川の戦いでは、やたら徳川の譜代家臣たちが活躍していまして。

戦国の世を知らない将軍に対して「我々の先祖が家康公を支えたから今の徳川の世があるんです。譜代家臣を大事にしなさいよ!」と、将軍を教育する格好のネタにしていたようにも思えます。

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姉川の戦いは野戦による決戦が目的ではなかった

話を戻しましょう。

姉川の戦いの経過で確かなことは、ざっと次のようなことです。

◆西の朝倉家に徳川家が対峙し、東の浅井家を信長の馬廻り衆と西美濃三人衆が戦ったこと

◆朝倉家の猛将・真柄直隆や、同じく浅井家の猛将・遠藤直経など、浅井、朝倉方の多数の将が戦死したこと

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織田信長が、撤退する浅井・朝倉家を追撃し、小谷城下をまたしても放火しまくったこと

姉川の戦い後も、浅井家は何年にも渡って軍事行動が可能だったように、

「実は浅井は負けてなかったんじゃないか?」

とか

「そもそも小規模な戦いだったんじゃないか?」

と言われており、結局は正確な経過がほとんど不明なんだ……ということに尽きます。

確実なことを確認しておきますと……。

あくまで横山城が主戦場。

姉川の戦いは後詰め戦から展開した野戦であり、野戦による「決戦」が目的ではなかったことです。

この後、小谷城下まで攻められているので浅井長政は確かに野戦に負けましたが、「横山城防衛に失敗した」と言う方が正確でしょう。

【姉川の戦いの意義】

・野戦による決戦が目的ではなかった

・浅井は横山城の防衛に失敗した

後詰めの来ない横山城はもはや死んだも同然です。

横山城を守備する浅井方の国人衆は、戻ってきた信長に降参し、城を織田方に明け渡します。

信長は横山城の城番として木下藤吉郎(豊臣秀吉)と竹中半兵衛重治を入れ、続いて佐和山城の攻略に向かいました。

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磯野軍 佐和山城参戦は不可能だったのでは?

佐和山城は相変わらず磯野員昌が守備しておりました。

軍記物では、磯野員昌の姉川の戦いでの活躍が知られていますが、そもそも敵地にポツンと取り残されている佐和山城の城主が姉川の戦いに参加できたかどうか疑問です。

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陸路では織田家の支配地域を縦断して行かなくてはなりません。

そうであれば、わざわざ浅井長政の元になど行かず、織田方の背後に陣取るか、横山城に入城するでしょう。

あるいは琵琶湖から船で小谷城方面に出ることも考えられます。

今と違って佐和山城下まで内湖が広がっていましたので、城から直接、琵琶湖に出ることが可能です。このルートで船団を率いて小谷城に向かったことも考えられます。

そこで佐和山城を空っぽにしてまで姉川に向かうでしょうか。

今回の織田家の目的は「京都までの進軍ルートを確保」し、「織田信長がいつでも畿内に軍勢を繰り出せることを諸大名に見せつけること」です。

故に、主戦場は南。

佐和山城はそれを阻止する最後の要の城ですから、守る側の浅井家も小谷城より佐和山城の防衛こそがヤマになっていたはずです。

そう考えると磯野員昌の参戦も怪しく、そもそも姉川の戦いの勝敗もそれほど重要ではないことが分かります。

 

京都までの進軍ルートは確保した

岐阜城の出陣から、佐和山城攻城戦までの一連の戦い。

それを見ると、小谷城への攻撃や姉川の戦いは、横山城と佐和山城の攻撃前に、織田方が背後を狙われないために仕組んだ牽制と見るほうが自然です。

浅井長政が北近江防衛のためにすべきだった美濃に侵入して荒らしまくるという牽制を、義兄の信長自身が長政の面前でやってみせたのです。

佐和山城の短期間での落城は難しいと判断した信長は付け城戦術で対抗します。

城に通じるすべての道を付け城で遮断しました。

佐和山城を包囲する織田方の付け城。戦国時代は城の麓まで琵琶湖の内湖が広がっていました。彦根山は内湖からの補給ルートを阻止する役目があったと思われますが、制湖権は浅井方にありましたので、どこまで機能していたか分かりません

佐和山城を包囲する織田方の付け城。戦国時代は城の麓まで琵琶湖の内湖が広がっていました。彦根山は内湖からの補給ルートを阻止する役目があったと思われますが、制湖権は浅井方にありましたので、どこまで機能していたか分かりません/©2015Google,ZENRIN

すでに横山城まで信長の支配地域に入ってしまったため、小谷城からの援軍や兵糧は期待できません。

かなり絶望的な状況。

しかし佐和山城自体が巨大な城郭で、琵琶湖からの補給ルートはまだ浅井家が握っておりました。

磯野員昌という頼りになるアニキの存在で、これ以後も降伏することなく籠城に徹します。

結局、道を封鎖されたとはいえ佐和山城の落城は免れました。

横山城、佐和山城の攻城戦を一連の戦いと考えると1勝1敗の引き分けと考えてもよさそうです。

とはいえ信長は京までの進軍ルートを確保するという主目的を達成しております。

信長が、義昭に謁見して勝利を報告したのは誇張でも間違いでもないでしょう。

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このようにお互いが完璧とは言わないまでもある程度目的を達成したのです。

こうしてみると有名な戦いであるにも関わらず【姉川の戦い】が決定的な戦いにならなかった理由が分かります。

今回はここまで!

今後は三好三人衆や本願寺の蜂起から、森可成の死、それに続く坂本城の歴史的意義まで突っ込んでみたいと思います。

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筆者:R.Fujise(お城野郎)

◆同著者その他の記事は→【お城野郎!

武将ジャパンお城野郎FUJISEさんイラスト300-4

日本城郭保全協会 研究ユニットリーダー(メンバー1人)。

現存十二天守からフェイクな城までハイパーポジティブシンキングで日本各地のお城を紹介。

特技は妄想力を発動することにより現代に城郭を再現できること(ただし脳内に限る)。

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